奇妙な歴史・黒歴史

顔の毛に値段をつけた皇帝――1698年9月5日、ロシアの男たちはヒゲに課税された

奇妙な歴史・黒歴史公開 2026年9月4日更新 2026年9月21日ザツレコ編集部
顔の毛に値段をつけた皇帝――1698年9月5日、ロシアの男たちはヒゲに課税された

1698年9月5日、ロシアで顔の毛が課税対象になった。ヨーロッパ外遊から帰った皇帝ピョートル1世は歓迎の宴でカミソリを抜き、居並ぶ高官のヒゲをその場で剃り落とす。残したい者は年60〜100ルーブル、銀にして1キロ以上を毎年納め、「金は受け取った」と刻まれた銅の札を持ち歩いた。持っていなければ路上で剃られる。正教会は無髭を冒涜と宣言し、旧儀式派は目印の服まで義務づけられた。ところが1705年から1708年の年平均徴収額はわずか3,588ルーブル。財源としては大失敗である。そして同じくらい有名な「ヘンリー8世のヒゲ税」のほうは、裏づける史料が一つも見つかっていない。

1698年の秋、モスクワ郊外の屋敷で歓迎の宴が開かれていました。1年半にわたるヨーロッパ外遊から帰ってきたばかりの、26歳の皇帝を迎える席です。集まったのは陸軍の総司令官、皇帝の腹心、そして高官たち。全員が当時のロシアの正装、つまり床まで届く長い上着と、顔いっぱいの立派なヒゲで並んでいました。宴もたけなわ、上機嫌の皇帝が懐から何かを取り出します。床屋が使う、大きなカミソリでした。今日は、人の顔に生えている毛に、国が値段をつけてしまった話です。

宴席でカミソリを取り出した皇帝

主役はピョートル1世、のちのピョートル大帝です。

彼は1697年から1698年にかけて、大使節団という名目で西ヨーロッパを回っていました。おもしろいのは、皇帝自身が身分を隠して参加していたことです。名乗ったのは「ピョートル・ミハイロフ下士官」。総勢250人の使節団に紛れ込めば目立たない、という理屈だったようですが、身長2メートルを超える大男だったので実際にはかなりバレていたと伝わります。

彼はオランダ東インド会社の造船所で4か月間、本当に職人として働きました。そのあとイギリスへ渡り、デプトフォードの海軍造船所で造船を学び、工場や兵器庫や学校や博物館を見て回り、議会の会期まで傍聴しています。目的は明確でした。ロシアには海に出せる艦隊がなく、西ヨーロッパにはそれがある。その差を自分の手で埋めに行ったわけです。

そして帰国した彼が、ヨーロッパとロシアの差として真っ先に手をつけたものの一つが、ヒゲでした。

歓迎の宴でカミソリを抜いた皇帝は、まず陸軍の総司令官のヒゲをその場で剃り落とします。次に腹心のフョードル・ロモダノフスキー。そして居合わせた高官たちを、順番に。歓声が悲鳴に変わり、部屋が凍りついたと伝えられています。人任せにせず皇帝が自分でやる、というのがこの人物の一貫した流儀でした。

1698年9月5日、顔の毛が課税対象になった

とはいえ、国じゅうの男を一人ずつ剃って回るのは無理があります。そこで1698年9月5日、勅令が出ました。

内容はこうです。聖職者と農民を除くすべての男は、ヒゲを剃れ。どうしても残したい者は、その分の金を国に納めよ。役人が国じゅうに散り、支払っていない者を街頭で押さえて剃り上げる、という運用まで付いていました。これが世界でいちばん有名なヒゲ税の始まりです。

ただし、ここには細かいけれど大事な補足があります。「1698年9月5日にヒゲ税ができた」と紹介されることが多いのですが、制度として完成したのはもう少しあとです。というのも、賄賂を受け取って見逃す役人が続出し、最初の勅令はうまく機能しなかった。そこでピョートルは1705年1月16日、あらためて正式な勅令を出します。タイトルを直訳すると「聖職者と輔祭を除く各身分の者のヒゲと口ヒゲの剃髪、および剃ることを望まぬ者からの徴収と、納付者への標識交付について」。長いですが、この一文にこの税のすべてが入っています。剃るか、払って札をもらうか。

つまり1698年9月5日は宣戦布告の日で、1705年が本格運用の年、というのが正確なところです。

ヒゲの値段は身分で決まっていた

この税がおもしろいのは、金額が身分ごとにきれいに階段状になっていることです。

宮廷に仕える者、軍人、官職にある者は年60ルーブル。裕福な商人は年100ルーブル。それ以外の商人や町人は年60ルーブル。モスクワの住民は年30ルーブル。そして農民は、都市の門を出入りするたびに2デンガ、つまり1コペイカ。

数字だけ見てもピンと来ないので、銀に換算してみます。当時のルーブルには純銀が約20グラム含まれていました。年60ルーブルなら銀およそ925グラム、年100ルーブルなら銀およそ1.5キログラムです。ヒゲを一年ぶん保有するために、毎年1キロ以上の銀を国庫に納める。しかも払ったところで得られるのは、自分の顔にもとから生えているものを、そのままにしておく権利だけです。

一方で農民が払うのは1コペイカ、つまりルーブルの100分の1。この極端な傾斜は、税として設計されたというより、「国の顔になる立場の人間ほど剃ってもらわないと困る」という意図がそのまま値段になった結果でした。

「金は受け取った」と刻まれた銅の札

払った証明として渡されたのが、ボロドヴォイ・ズナーク、日本語で言えば「ヒゲ札」です。ヒゲ・コペイカとも呼ばれます。

デザインが実にいい。片面には、鼻から下だけの顔が刻まれています。鼻、口、口ヒゲ、そして顎ヒゲ。顔面からヒゲの部分だけを切り取った図柄です。もう片面には帝国の紋章である双頭の鷲。銅製と銀製があり、身分によって使い分けられました。

刻まれた言葉がまた直球です。1705年と1710年に鋳造された円形の札には「ДЕНГИ ВЗѦТЫ」、訳すと「金は受け取った」。1724年と1725年に作られたひし形の札には「ヒゲ税を徴収した」と刻まれ、さらに札の縁の部分に、こう回し彫りされていました。「ヒゲは余計な重荷」。国が発行する納税証明書に、わざわざ嫌味が彫ってある。

この札を持たずに街を歩けば、その場で押さえつけられて剃られます。1698年か1699年に作られた最初期の札はごく素朴な銅貨で、現在まで見つかっているのはたった2枚。2018年にはプスコフの発掘現場から出土した例が地元で大きく報じられました。1845年にはイギリスの収集家ウォルター・ホーキンズが、自分のコレクションにあった一枚を図版付きで学会誌に紹介しています。300年以上前の顔の毛の徴税が、ちゃんとモノとして残っているわけです。

神が与えたものを剃れというのか

この政策に、ロシア社会は本気で抵抗しました。ファッションの好みの問題ではなかったからです。

ロシア正教の伝統では、人間は神の似姿として造られたと考えます。その顔からヒゲを剃り落とすことは、神が与えた姿を人間の都合で改造する行為にあたる。教会は、ヒゲのない状態そのものを冒涜だと宣言しました。皇帝の命令に従えば信仰に背き、信仰を守れば皇帝に背く。多くの男にとって、これは服装規定ではなく踏み絵でした。

とりわけ追い詰められたのが、17世紀の教会改革を拒んだ人々、いわゆる旧儀式派です。彼らはヒゲ税の対象になっただけでなく、古い形式のロシア服を着ることを法律で義務づけられました。ひと目でそれと分かる格好をさせられる、つまり事実上の身分標識です。信仰を捨てるか、金を払い続けて目印を背負うか。そういう選択を迫られました。

なお、剃られたヒゲを大事に保管しておいて、自分が死ぬときに棺へ入れてもらった――という話が、この税の逸話としてよく紹介されます。ただしこれは伝承として語り継がれてきたもので、同時代の記録で確かめるのは難しい部分です。事実として断定はできませんが、当時の人にとってヒゲが何だったのかは、この話の広まり方によく表れています。

そして、ほとんど儲からなかった

では、国はどれだけ儲かったのか。

1705年から1708年にかけての年平均徴収額は、およそ3,588ルーブルでした。大国の財政を支える額ではまったくありません。理由は二つあると考えられています。一つは、金を払ってまでヒゲを残す人が想定よりずっと少なかったこと。もう一つは、あの広大な国土でこの税を漏れなく取り立てるだけの行政能力が、当時のロシア国家になかったことです。ロシア史の研究者エヴゲニー・アケレフは2020年の論文で、この税を財政政策として見た場合の失敗を、この二点から整理しています。

そして1772年、ピョートルの死から47年後に、エカチェリーナ2世がヒゲ税を正式に廃止しました。制度としては、およそ70年続いたことになります。

ここで一つ、見落とされがちな点があります。この税は、財源として失敗したから無意味だったわけではない、ということです。ピョートルの狙いは金ではなく、人の見た目を変えることでした。払う人が少なかったというのは、言い換えれば「みんな剃った」ということです。税収の観点では大失敗、政策目標の観点ではおおむね成功。人の行動を変えさせるために税をかけるという発想の、かなり早い実例だと言えます。砂糖やたばこに税をかける現代の議論と、根っこは同じところにあります。

ヘンリー8世のヒゲ税は、たぶん存在しない

ここまで書いてきたロシアの話は、勅令の文面も現物の札も残っている、裏の取れる事実です。ところがヒゲ税には、もう一つ有名な話があります。

「1535年、イングランド王ヘンリー8世がヒゲに税をかけた。しかも自分は立派なヒゲを生やしていた。のちにエリザベス1世が同じ税を強化しようとした」――この話は書籍にもブログにも百科事典的なサイトにも載っていて、雑学として非常によく出回っています。

しかし、ヒゲの歴史を専門に研究しているアラン・ウィジー博士は、BBCの取材に対して、同時代の文書にこの税を裏づけるものはないと述べています。イギリス国立公文書館にも、そのような税が制定された記録はありません。ヒゲを引っぱる行為が罰金刑の対象だった記録は見つかるのですが、課税そのものの一次史料は、誰も提示できていない状態です。したがってヘンリー8世のヒゲ税は、現時点では俗説として扱うのが妥当でしょう。

似た話で、フランス王フランソワ1世が教皇の許可を得て聖職者のヒゲに課税し、払える宮廷聖職者と払えない村の司祭のあいだに分断が生まれた、という記述もあります。ただしこの出典は1786年の書物で、ロシアの事例ほど固くはありません。

逆パターンもあります。1936年、イエメン王国は「ヒゲを生やしていない者から取る税」を導入しました。同じ顔の毛でも、国が変われば課税される側が入れ替わる。ついでに言えば2016年にはイギリスで、ヒゲ税を導入せよという請願が実際に提出されています。人類はどうも、他人の顔の毛から税金を取ることを、定期的に思いつくらしい。

まとめ

1698年9月5日、ロシアで顔の毛が課税対象になりました。値段は身分で決まり、払った証拠として「金は受け取った」と刻まれた銅の札が渡され、持っていない者は路上で剃られた。教会はそれを冒涜と呼び、旧儀式派は目印を背負わされた。そして70年余りのちに廃止されるまで、この税はほとんど儲かりませんでした。

一方、同じくらい有名なヘンリー8世のヒゲ税のほうは、裏づける史料が見つかっていません。実在した奇妙な税と、実在しなかった奇妙な税が、同じ棚に並んで語られている。雑学というのは、だいたいこういう混ざり方をしています。片方には勅令と現物の札があり、片方には何もない。その差を確かめておくだけで、同じ話がずいぶん違って見えてくるはずです。

出典・参考情報

  • [A] ロシア皇帝ピョートル1世勅令「聖職者と輔祭を除く各身分の者のヒゲと口ヒゲの剃髪、剃ることを望まぬ者からの徴収、および納付者への標識交付について」(1705年1月16日)
  • [A] Brockhaus and Efron Encyclopedic Dictionary「Бородовой знак(ヒゲ札)」(サンクトペテルブルク、1907年)
  • [A] Walter Hawkins「Russian Beard Token」The Numismatic Chronicle 第7巻(1845年)=現物の図版と来歴
  • [B] Evgenii Akelev「Is It Possible to Make Money from Beards?」Cahiers du monde russe 61巻1号(2020年)=徴収額と財政的失敗の分析
  • [B] Smithsonian Magazine「Why Peter the Great Established a Beard Tax」(2017年9月5日)
  • [B] Encyclopaedia Britannica「Peter the Great」=大使節団と西欧化改革
  • [B] Friedrich von Schrötter編『Wörterbuch der Münzkunde』(1970年)=ヒゲ札の鋳造年と形状
  • [B] Richard Corson『Fashions in Hair: The First Five Thousand Years』第3版(2005年)
  • [B] BBC取材によるアラン・ウィジー博士のコメント=ヘンリー8世・エリザベス1世のヒゲ税に同時代史料なし
  • [B] Atlas Obscura「A Beard Tax is Being Proposed in England, and It's Not the First」=2016年の請願と英国側の俗説検証
  • [B] The Bulletin of the National Tax Association 22巻1号(1936年)=イエメン王国の「無髭税」
  • [C] Jacques-Antoine Dulaure『Pogonologia』(1786年)=フランソワ1世による聖職者のヒゲ課税の記述(後代の検証が乏しい)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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