陰謀論・タブー情報

「事故ではない」と29年――英国警察が陰謀論に出した答えは832ページだった

陰謀論・タブー情報公開 2026年8月30日更新 2026年9月12日ザツレコ編集部
「事故ではない」と29年――英国警察が陰謀論に出した答えは832ページだった

1997年8月31日午前0時24分、パリのアルマ橋トンネルでダイアナ元皇太子妃らを乗せたメルセデスが柱に激突した。彼女は二年前、弁護士との面会で「ブレーキ故障による自動車事故」を恐れていると語り、メモが残されていた。英国警察は陰謀論を検証するために捜査官14人と3年を投じ、175の申し立てに章立てで答える832ページの報告書を書く。結論は事故。だが接触した白いフィアット・ウーノだけは、2,000台を調べても見つからなかった。

今日は8月31日です。1997年の今日、日付が変わって間もない午前0時24分。パリのセーヌ川沿いにある、アルマ橋の下をくぐる短いトンネルに、一台の黒いメルセデスが猛スピードで飛び込みました。数秒後、車は中央分離帯の柱に正面から激突します。

乗っていたのは4人。ダイアナ元英皇太子妃、恋人のドディ・アルファイド、運転していたリッツ・ホテルの警備責任者アンリ・ポール、そしてボディガードのトレヴァー・リース=ジョーンズ。生き延びたのは、最後の一人だけでした。

あれから29年です。この事故は、世界でもっとも有名な自動車事故であると同時に、世界でもっとも有名な「事故ということになっている出来事」でもあり続けています。今日はその話をします。ただし、陰謀論を語る回ではありません。陰謀論に対して国家が本気で回答を書いたら何ページになるのか、という話です。

答えを先に言ってしまうと、832ページでした。

二年前のメモに書かれていた「ブレーキ故障」

まず、疑いが生まれた理由から始めます。これがかなり気味の悪い話です。

1995年10月30日、ダイアナは自分の弁護士であるヴィクター・ミシュコンと面会しています。その席で彼女は、信頼できる筋から聞いた話として、翌1996年の4月ごろまでに自分を「排除する」、あるいは精神的に不安定だと見なされる程度に傷つける計画がある、と語りました。その手段として彼女が口にしたのが、ブレーキの故障による自動車事故でした。ミシュコンはその場でメモを取っています。これが後に「ミシュコン・ノート」と呼ばれる文書です。このメモが実在すること自体は、のちに英国警察が確認しています。事実です。

さらに1996年10月、離婚から二か月後にダイアナが書いたとされる手紙があります。執事のポール・バーレルが保管していて、2003年に自著で公表したものです。そこには、自分の車に細工した「事故」が計画されている、ブレーキ故障と重度の頭部外傷によって、という趣旨の記述がありました。ただしここは慎重に扱う必要があります。これは本人の私信であって、「彼女がそう考えていた」ことの証言ではあっても、「そういう計画が存在した」ことの証拠ではありません。

そして1997年8月31日、彼女は自動車事故で、頭部と胸部の損傷によって亡くなります。

これだけ並べれば、誰でも背筋が寒くなります。実際、寒くなった人が世界中にいました。

1997年8月31日、午前0時24分

では、その夜に何が起きたのか。確定している事実だけを並べます。

ダイアナとドディはリッツ・ホテルを裏口から出ました。正面には報道カメラマンが張り付いていたからです。ハンドルを握ったのは専属の運転手ではなく、その夜たまたま呼び戻されたホテル警備責任者のアンリ・ポールでした。のちの血液検査で、彼の血中アルコール濃度はおよそ1.7から1.8グラム毎リットルと判定されています。フランスの法定基準は0.5です。三倍を超えていました。

車はセーヌ川沿いの道路を走り、アルマ橋のトンネルに進入します。事故調査による推定進入速度は、時速およそ105キロ。この区間の制限速度は50キロでした。後方にはバイクと車のカメラマンが群がっていました。

トンネル内で、メルセデスは白い小型車と接触します。そこからコントロールを失い、中央分離帯の13本目の柱に正面衝突しました。ドディとアンリ・ポールはほぼ即死。ダイアナは病院に搬送され、午前4時に死亡が確認されます。

4人のうち、シートベルトを締めていたのはリース=ジョーンズだけでした。そして助かったのも、彼だけでした。

疑いはこうして膨らんだ

事故の直後から、いくつもの「引っかかり」が指摘されました。

なぜトンネル内の映像が残っていないのか。なぜ救急車は病院まであれほどゆっくり走ったのか。なぜ遺体は英国に戻る前にフランスでエンバーミング、つまり防腐処置をされたのか。妊娠の有無を確かめられなくするためではないのか。そして、接触したはずの白い車はどこへ消えたのか。

一つ一つは、大きな事故なら普通に出てくる種類の疑問です。ところが、これらすべてを一本の線でつないだ人物がいました。ドディの父であり、ロンドンの高級百貨店ハロッズのオーナーだった実業家、モハメド・アルファイドです。彼は、息子とダイアナの結婚を阻むために英王室が秘密情報部MI6に命じて事故を仕組んだ、と公然と主張しました。これはあくまで彼の主張であり、のちに司法の場で明確に否定されることになります。

ただ、主張は具体的で、名指しで、そして何年も繰り返されました。無視するには大きくなりすぎたのです。

国家が陰謀論に出した832ページの答え

ここからが本題です。

2004年1月6日、英王室付き検死官のマイケル・バージェスが、ロンドン警視庁のジョン・スティーヴンス総監に正式に依頼しました。殺人の共謀が英国内で行われたという申し立てがある以上、警察が捜査しないわけにはいかない、と。検死官には、犯罪の疑いを知った時点で警察に付託する法的義務があります。つまりこの捜査は、警察が陰謀論に付き合ってやったのではなく、法律上やらざるを得なかったのです。ここは意外と知られていません。

作戦名は「オペレーション・パジェット」。ベテラン捜査官14人が、およそ3年をかけました。調べたのは、事故以来メディア・法廷・書簡で出されたすべての申し立てです。175件と数えられています。

2006年12月14日に公表された報告書は、832ページ。章立てを見ると本気度がわかります。妊娠と婚約の有無。ダイアナが感じていた脅威。パパラッチの行動。アンリ・ポールという人物。パリの防犯カメラ。メルセデスという車両。進路を塞いだとされる車と目撃された閃光。事故後の医療処置。エンバーミング。フランス当局の行動。在パリ英国大使館の行動。ボディガードたち。白いフィアット・ウーノとその持ち主だった写真家。CIAとNSA。そしてMI6とMI5。

陰謀論の一つ一つに、章が一つずつ割り当てられている。そういう構成の文書です。

回答も具体的でした。妊娠説には、法科学者アンジェラ・ギャロップによる胃の内容物の分析で、妊娠していなかったという結論が示されました。運転手の血液サンプルが取り違えられたという説には、DNA照合で本人のものだと確認されたと示されました。疑いをかけられていた写真家ジェームズ・アンダンソンの白いフィアット・ウーノについては、彼の車を実際に調べ、メルセデスとの接触痕がないことが示されました。

スティーヴンス総監の結論は、こうです。現時点で入手可能なすべての証拠に基づけば、車内の誰かを殺害する陰謀は存在しなかった。これは悲劇的な事故だった。陰謀もなければ、隠蔽もなかった。

ちなみに本編は832ページですが、その裏付けとなる資料は、印刷すると11,000ページを超えました。写真は1,400枚以上。捜査と、このあと話す審問を合わせた費用は、1,250万ポンドを超えています。

93日、278人、そして9対2

報告書だけでは終わりませんでした。2007年10月2日、スコット・ベイカー判事のもとで正式な死因審問、インクエストが開かれます。英国の死因審問は、市民から選ばれた陪審が評決を出す制度です。

審理は93日間に及び、世界中から278人の証人が呼ばれました。しかもアルファイド側の弁護団には、警察が集めた証拠へのアクセスが認められています。つまり「陰謀論の側」に、国家が手札を全部見せた上で、反論させたわけです。

2008年4月7日、11人の陪審は、9対2の多数決で評決を出しました。ダイアナとドディは「不法致死」であった。ただし、犯人は王室でもMI6でもない。アンリ・ポールの重過失運転と、メルセデスを追走したパパラッチの重過失である、と。

陪審は理由も具体的に挙げました。写真家たちが危険なほど車間を詰めて「レース」をしており、アンリ・ポールに逃げ場がなかったこと。飲酒による判断力の低下。そしてシートベルトを締めていなかったこと。

ベイカー判事は、フィリップ殿下が保安機関に殺害を命じたというアルファイドの主張について、それを支える証拠は「一片たりともない」と述べています。

アルファイドは評決を受け入れませんでした。2023年に彼が亡くなるまで、主張は変わらなかったと伝えられています。

見つからなかった白い車

それでも、この件には最後まで埋まらなかった穴が一つあります。白いフィアット・ウーノです。

メルセデスの車体には、接触した相手の塗料が残っていました。分析の結果、その色は「ビアンコ・コルフ」という名前の白で、1983年から1987年に製造されたフィアット・ウーノにだけ使われた塗装だと特定されています。年式まで絞り込めたのです。それなのに、その一台は見つかりませんでした。フランス警察は該当する塗装の車をおよそ2,000台調べましたが、一致するものはありませんでした。

運転していたのが誰なのか、その接触が事故にどれだけ寄与したのか、いまも確定していません。捜査に関わった人々自身が、これを心残りだと語っています。

ここが、この話のいちばん重要なところだと思います。832ページを書き、11,000ページの資料を集め、278人を証言台に立たせ、1,250万ポンドを使って、それでも白い車一台は見つからなかった。人間がやる調査というのは、そういうものです。完璧には埋まりません。

そして陰謀論は、いつもその埋まらない穴に住みます。

まとめ

ダイアナの死は、陰謀論としてはかなり例外的な扱いを受けました。ふつう、陰謀論は無視されるか、せいぜい記者が反証記事を一本書いて終わります。ところがこの件では、国家が法的な義務として、捜査官14人と3年と1,250万ポンドを投じ、175の申し立てに章立てで回答し、その上で市民の陪審に判断させました。ここまでやった例は、他にほとんどありません。

そして結論は「事故」でした。飲みすぎた運転手、出しすぎた速度、締めていなかったシートベルト、そして逃げ場を塞いだカメラの群れ。どこにも黒幕はおらず、どこにも設計図はない。ただ、避けられたはずの原因がいくつも重なっていただけです。

それでも、二年前のメモに「ブレーキ故障の事故」と書かれていた事実は消えません。832ページは、その不気味さまでは説明してくれません。説明できるのは、そのメモが「彼女がそう恐れていた」ことの記録であって、「そう仕組まれた」ことの証拠ではない、というところまでです。

偶然というのは、たまに人間の想像力より不気味な形をしています。陰謀論が強いのは、その不気味さに名前と顔を与えてくれるからでしょう。名前と顔があった方が、まだ耐えられますから。

知っていても人生に何の影響もない話ですが、832ページというページ数だけは、覚えておくと少し面白いと思います。

出典・参考情報

  • [A] Metropolitan Police「The Operation Paget inquiry report into the allegation of conspiracy to murder」(2006年12月14日公表・832ページ)
  • [A] 英国国立公文書館 保存版「Coroner's Inquests into the Deaths of Diana, Princess of Wales and Mr Dodi Al Fayed ― Verdict of the jury」(2008年4月7日)
  • [A] BBC News「Princess Diana unlawfully killed」(2008年4月7日)
  • [A] BBC News「Diana death a 'tragic accident'」(2006年12月14日)
  • [A] BBC News「Met chief will lead Diana probe」(2004年1月7日)
  • [B] BBC News「Diana inquiry costs exceed £12m」(2008年4月15日)
  • [B] The Washington Post「Paparazzi and Driver Found Negligent in Princess Diana's Death」(2008年4月8日)
  • [B] Press Gazette「Jury: Paparazzi and Henri Paul to blame for manslaughter of Diana」(2008年4月7日)
  • [B] Paul Burrell『A Royal Duty』(2003年)※バーレル書簡およびミシュコン・ノートの経緯について

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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