奇妙な歴史・黒歴史

西ローマ帝国が滅んだ日――当時のイタリアで「帝国が終わった」と思った人は、たぶんいない

奇妙な歴史・黒歴史公開 2026年9月3日更新 2026年10月13日ザツレコ編集部
西ローマ帝国が滅んだ日――当時のイタリアで「帝国が終わった」と思った人は、たぶんいない

476年9月4日、西ローマ帝国は滅んだ――ということになっている。だが廃位された「最後の皇帝」ロムルス・アウグストゥスは、東ローマ皇帝から一度も承認されていない。正統な西の皇帝ユリウス・ネポスはさらに4年生き、帝国そのものは東で1453年まで続いた。舞台はローマですらなくラヴェンナで、日付すら二つの写本で食い違う。廃位された少年は処刑されず、年6000ソリドゥスの年金とナポリ近郊の城を与えられ、おそらく30年以上を生きた。「滅亡の日」を作ったのは、40年後の年代記作者と、1300年後のギボンだった。

1500年以上前の今日、476年9月4日。世界史の教科書には、たった一行だけ書かれています。西ローマ帝国滅亡。地中海をぐるりと囲んで千年続いた巨大な国が、この日に終わった、ということになっている。ところが、そのときイタリアに生きていた人間で「今日、帝国が滅んだ」と思った人は、おそらく一人もいませんでした。それどころか、この日に廃位された「最後の皇帝」は、法律上は皇帝ですらなかった。今日は、世界でいちばん有名な滅亡の日が、どうやって「滅亡の日」になったのかを掘っていきます。

10歳の皇帝が立った日

話は前の年から始まります。475年8月28日、西ローマ帝国の軍司令官オレステスが軍を率いて首都ラヴェンナに入り、皇帝ユリウス・ネポスを追い出しました。ネポスはアドリア海を渡ってダルマティア(いまのクロアチア沿岸)へ逃げます。

奇妙なのは、そのあとオレステスが自分で帝位に就かなかったことです。2か月の空位を挟んで、475年10月31日、彼が皇帝に据えたのは自分の息子でした。年齢は諸説ありますが、10歳前後だったとみられています。名前はロムルス。母方の祖父から取った名前で、その祖父は449年にアッティラのもとへ使節として送られた人物でした。ちなみに父オレステス自身も、かつてアッティラの秘書官を務めた経歴の持ち主です。

即位にあたって、少年はアウグストゥスという名も自分の名前として名乗ります。ローマを建国した伝説の王ロムルスと、初代皇帝アウグストゥス。ローマの始まりを示す二つの名前が、最後の皇帝の上でそろってしまった。この偶然は昔から歴史家に指摘されていて、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンも「都市と帝政、二人の偉大な創始者の名が、最後の後継者において奇妙に結ばれた」と書いています。

ただし当時の人々は、そんな詩的な受け止め方はしていません。彼らはこの少年を「アウグストゥルス」と呼びました。小さなアウグストゥス、という意味の、明らかにからかいの呼び名です。公式には一度も使われておらず、彼の発行した硬貨にはすべて「ロムルス・アウグストゥス」と刻まれています。ギリシア語圏ではさらにひどく、ロムルスをもじって「モミュルス」、つまり「小さな恥」と呼ばれていました。

476年8月28日、父は殺された

帝国末期の軍隊は、その大半がゲルマン系の傭兵、いわゆるフォエデラティ(同盟軍)で構成されていました。ヘルリ族、スキリ族、トゥルキリンギ族。彼らは476年、イタリアに定住するための土地を要求します。オレステスはこれを拒否しました。

拒否された兵たちが担いだのが、オドアケルという将校です。出身部族すらはっきりしない人物ですが、その父エデコは、かつてアッティラの宮廷でオレステスと同僚だったと伝わります。かつて同じ王のもとで働いた男たちの息子同士が、帝国の最後を挟んで向き合ったわけです。

476年8月28日、オドアケルはティキヌム(現在のパヴィア)でオレステスを破り、捕らえて処刑しました。ちょうど1年前の同じ8月28日に、オレステスがラヴェンナに攻め入って皇帝を追放していたことを思い出してください。奪った日と、奪われた日が同じ日付でした。

9月4日、ラヴェンナが落ちる

そして9月4日、オドアケルの軍がラヴェンナに入ります。オレステスの弟パウルスは戦闘の中で殺され、少年皇帝は捕らえられて退位させられました。

ここで一つ、細かいけれど大事な点があります。舞台はローマではありません。5世紀の西ローマ皇帝はとっくにローマ市を離れ、湿地と運河に守られたラヴェンナを首都にしていました。「ローマ帝国が滅んだ日」に、ローマは現場ですらない。

さらに言えば、9月4日という日付そのものが、写本次第で揺れます。『ファスティ・ウィンドボネンセス・プリオレス』という年代記は「9月のノナエの前日」つまり9月4日と記し、別の『アウクタリウム・プロスペリ・ハウニエンセ』は「9月のカレンダエの前日」つまり8月31日と記しています。テオドール・モムゼンの校訂では、どちらか一方が書き写しの際の崩れだと見られています。現在9月4日が採られているのは、前者のほうが信頼性が高いとされることに加えて、パヴィアからラヴェンナまで軍が行進する時間を考えると4日のほうが自然だから、という理由もあります。世界史の区切りの日付が、写本の読みと行軍日数の推定に乗っている。

皇帝の証は、東へ送られた

オドアケルは、西の皇帝の証である帝位の標章一式を、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝ゼノンのもとへ送りました。5世紀の東ローマの歴史家マルコス(Malchus)によれば、少年ロムルスの最後の公務は、その標章に添える「辞職の手紙」を書かされることだったといいます。手紙の趣旨はこうです。ローマ帝国にもう西の皇帝は必要ない、コンスタンティノープルに一人いれば足りる。

これは「帝国をやめます」という宣言ではありません。むしろ逆で、「西の分は東に返上します、帝国は続きます」という手続きです。オドアケルは自分を皇帝と称さず、ゼノンの下でイタリアを預かる立場を求めました。ゼノンは彼にパトリキウス(貴族)の位を与えつつ、「ネポスを皇帝として受け入れよ」と釘を刺します。オドアケルは名目上これに従い、しばらくネポスの名で硬貨を鋳造しました。

つまり書類の上では、この日、何も終わっていない。ローマ帝国は存在し、皇帝も存在し、イタリアは形式上ローマ領のままでした。

そもそも彼は正統な皇帝ではなかった

もっと根本的な問題があります。ゼノンは、ロムルス・アウグストゥスを一度も皇帝として承認していません。

正統な西の皇帝として東が認め続けていたのは、追放されたユリウス・ネポスのほうでした。ネポスは東ローマ皇帝レオ1世とゼノンによって任命された人物であり、イタリアを失ったあともダルマティアで皇帝を名乗り続け、480年に側近に殺されるまで在位していました。ロムルスは、東から見れば「軍司令官が勝手に立てた少年」でしかなかったのです。

このためラルフ・マティセンやマルイェタ・シャシェル・コスといった研究者は、本当の最後の西ローマ皇帝はネポスだと主張しています。しかもネポスが最後の名乗り手というわけでもありません。北アフリカではムーア人の司令官マスティエスが477年頃から516年頃まで皇帝を自称し、西ゴート支配下のヒスパニアでもブルドゥネルス(496年)とペトルス(506年)が帝位を主張しています。

そして最大の事実。ローマ帝国そのものは、東で1453年まで続きました。住民も皇帝も、自分たちを最後までローマ人だと考えていた。「ローマ帝国の滅亡」を476年に置くというのは、東を別の国だとみなす後世の整理があってはじめて成り立つ話です。

年金6000ソリドゥスと、ナポリの城

廃位された少年はどうなったか。処刑されていません。

伝えられるところでは、オドアケルは「その若さと美しさゆえに」命を助けました。そして年に6000ソリドゥスの年金を与えます。これは裕福な元老院議員の年収に相当する額です。住まいとして与えられたのが、ナポリ近郊カンパニアの「ルクッルスの城塞」。共和政末期の将軍ルクッルスが紀元前60年代に建てた海辺の別荘で、その後は第2代皇帝ティベリウスが晩年を過ごした場所でもありました。現在ナポリ湾に浮かぶ卵城(カステル・デローヴォ)が、その後身とされています。

最初の皇帝の次の皇帝が隠居した屋敷で、最後の皇帝が余生を送った。話がうまくできすぎている気もしますが、これは記録に残っている事実の側です。

彼は480年代から490年代に、その地でノリクムの聖セウェリヌスを祀る修道院の創設に関わった可能性が指摘されています。さらに507年から511年頃、オドアケルを倒してイタリア王となったテオドリック大王が、ある「ロムルス」に宛てて年金の確認をする手紙を書いています。宛名は「ロムルスへ、テオドリック王より」。テオドリックの現存書簡の大半には相手の肩書きや敬称が付いているのに、この一通にはそれが一切ありません。訳者トマス・ホジキンは、王も書記も元皇帝をどう呼べばいいのか分からなかったのではないかと書いています。もっともこの人物が同一人だという説は仮説であり、確定はしていません。

ただ、もし同一人なら、彼は「自分の帝国が滅びた日」から30年以上を年金生活で過ごしたことになります。

「滅んだ日」を作ったのは後世だった

では、いつから476年9月4日は「帝国が滅んだ日」になったのか。

同時代の記録は、驚くほど静かです。元老院は開かれ続け、執政官は任命され続け、税は集められ続け、ラテン語で文書が書かれ続けました。オドアケルの統治は有能だったと評価されており、ギボンでさえ彼の「思慮と人間味」を認めています。イタリアに暮らす人にとって、476年は「また司令官が代わった年」でしかなかった。

この日を終わりとして最初に書いたと分かっているのは、東ローマの年代記作者マルケリヌス・コメスです。彼が没したのは534年頃で、記述は事件から40年以上あとのもの。「ローマ人の西の帝国は、このアウグストゥルスとともに滅びた」と彼は書きました。それをプロコピオスやヨルダネスが引き継ぎ、ルネサンス期の人文主義者が古代と中世の境目として使い、18世紀のギボンが『ローマ帝国衰亡史』で決定版にした。ギボンは同じ本の中で、ロムルスは「ロムルスとアウグストゥスの名を名乗り、そして汚した」と切り捨てています。

いま多くの歴史家は、5世紀の西ローマを「崩壊」ではなく「変質」として描きます。476年9月4日に落ちたのは、一つの都市の、一つの役職でした。

まとめ

整理しましょう。廃位された人物は法的には皇帝ではなく、本物の皇帝はさらに4年生き延び、帝国そのものは東で千年続き、現場はローマですらなく、日付すら写本の読み方に依存していて、当の少年はその後30年ほど年金をもらって暮らしていたかもしれない。

それでも476年9月4日は、いまも古代と中世を分ける線として教科書に引かれています。線が間違っているという話ではありません。長い変化のどこかに線を引かないと、人間は歴史を語れない。ただ、その線を引いたのは滅びた当人たちではなく、40年後の年代記作者であり、1300年後の歴史家だった。歴史の区切りというのは、だいたい後から誰かが引いています。それを知っているだけで、教科書の一行はずいぶん違って見えるはずです。

出典・参考情報

  • [A] Fasti vindobonenses priores / Auctarium Prosperi Havniense(Th. Mommsen校訂 Chronica Minora I, 1892)=廃位日の記述
  • [A] Marcellinus Comes『年代記』(6世紀前半)=西の帝国が「アウグストゥルスとともに滅びた」とする最初期の記述
  • [A] Malchus『歴史』断片(5世紀)=帝位標章と辞表をゼノンへ送った経緯
  • [A] Cassiodorus『Variae』所収 テオドリック王書簡「ロムルスへ」(507〜511年頃)
  • [B] A.H.M. Jones, J.R. Martindale, J. Morris『The Prosopography of the Later Roman Empire』第2巻(1980)
  • [B] Ralph W. Mathisen「Romulus Augustulus」De Imperatoribus Romanis(1997)
  • [B] Marjeta Šašel Kos「The Family of Romulus Augustulus」(2008)
  • [B] J.B. Bury『History of the Later Roman Empire』(1889/2015復刊)
  • [B] Thomas Hodgkin『The Letters of Cassiodorus』(1886)
  • [B] Edward Gibbon『ローマ帝国衰亡史』(1776〜1788)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

タグ

ローマ帝国
西ローマ帝国
ロムルス・アウグストゥルス
オドアケル
ユリウス・ネポス
476年
古代ローマ
ラヴェンナ
世界史
黒歴史
雑学