人体・医学の怪

脳は、ひとつの臓器ではなかった――考える脳と、息をさせる脳は、生まれた場所が違う

人体・医学の怪公開 2026年9月23日更新 2026年10月12日ザツレコ編集部
脳は、ひとつの臓器ではなかった――考える脳と、息をさせる脳は、生まれた場所が違う

2026年9月18日、スタンフォード大学の研究チームがNature Neuroscienceに、人間の脳の前(前脳・中脳)と後ろ(後脳)は、胚のごく早い段階で別々の前駆細胞から生まれると発表した。目印はOtx2とGbx2という二つの遺伝子。5億5000万年続く「二本立て」の設計と、SMAやALS研究への道筋までを解説する。

「脳はいくつあるか」と聞かれたら、ほとんどの人は迷わず「一つ」と答えるだろう。ところが2026年9月18日、スタンフォード大学医学部の研究チームが、その答えを揺さぶる論文を発表した。私たちの脳は、生まれる前のごく早い段階で、まったく別々の二つの“種”から育っている。つまり、考える脳と、息をさせる脳は、もともと別の臓器として出発している、というのだ。頭の中に並んでいる二つの脳の話から、5億年を超える進化の時間、そして難病の研究への道筋まで。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

頭の中に臓器が二つあるという論文

頭の中に臓器が二つあるという論文

論文が載ったのは、神経科学の専門誌「Nature Neuroscience」。題名は「Two parallel neural ectoderm progenitors contribute to the developing brain」、日本語にすれば「並行する二つの神経外胚葉の前駆細胞が、発生中の脳をつくる」となる。率いたのはスタンフォード大学の発生生物学の准教授カイル・ロー(Kyle Loh)で、筆頭著者は大学院生のライヤン・ジョカイ(Rayyan Jokhai)とキャロリン・ダンデス(Carolyn Dundes)の二人。カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学サンフランシスコ校も加わっている。

大学の発表文の見出しは、ずばり「人間の脳は二つの別々の臓器である」。ロー准教授は「脳の前の部分が、後ろの部分とはまったく違う前駆細胞から生まれることを、初めて示した」と語っている。前駆細胞とは、これから特定の細胞へ育っていく、いわば下書きの段階の細胞のことだ。

これまでの教科書的な理解では、脳は一枚の「神経板」から始まる。それが筒状に丸まって神経管になり、前から順に前脳・中脳・後脳へと区切られていく。一本の管が、あとから仕切られていくイメージである。今回の研究は、その管がそもそも最初から、二つの別々の材料を継ぎ合わせたものだった、と言っているわけだ。

目印はOtx2とGbx2という二つの遺伝子

目印はOtx2とGbx2という二つの遺伝子

研究チームが目をつけたのは、胚の中で体の基本的な形ができあがる「原腸形成」という、きわめて早い時期だった。マウスの胚を調べると、将来脳になる細胞の集団は、この時点ですでに二つのグループに分かれていたという。

一つは、Otx2という遺伝子を働かせているグループで、こちらは前脳と中脳になる。言葉や意識、抽象的な思考といった、いわゆる頭のよさを担う部分だ。もう一つは、Gbx2という遺伝子を働かせているグループで、こちらは後脳、つまり脳幹の下のほうになる。呼吸や心拍の調節、ものを飲み込む動き、顔や舌の筋肉の制御といった、意識しなくても止まらない仕事を受け持つ部分である。

Otx2とGbx2そのものは、新しく見つかった遺伝子ではない。1999年には、この二つが互いの働きを押し返し合い、ぶつかった線が中脳と後脳の境目になる、という研究がすでにNatureに出ている。その境目には「峡部オーガナイザー」と呼ばれる、周りの組織に指示を出す領域ができることも知られていた。今回新しいのは、その境目が後から引かれた線ではなく、最初から別々だった二つの細胞集団の合わせ目だったと示した点だ。研究チームは、二つの集団は重なり合うことがない、と表現している。

同じ胚の中にいても交わらない細胞

同じ胚の中にいても交わらない細胞

では、なぜ二つは混ざらないのか。研究チームは、細胞核の中でDNAがどのように折りたたまれているか、いわゆるクロマチンの状態を比べた。DNAは糸巻きのように巻き取られていて、ほどけている場所の遺伝子しか読まれない。調べてみると、前の神経外胚葉と後ろの神経外胚葉では、この巻き取られ方が根本から違っていた。どの遺伝子のページが開いていて、どのページが閉じているかが、最初から別物だったのである。研究チームは、この違いが前駆細胞をそれぞれの運命に「ロックする」と説明している。

この発見は、実験室の長年の悩みにも答えを出した。人間の幹細胞から脳の神経細胞を作る研究は進んでいるが、後脳の神経細胞だけは、うまく作れないことで知られていた。ジョカイ氏によれば、これまでの試みは、前脳や中脳の前駆細胞を無理やり後脳の細胞に変えようとしていた可能性が高い。そして今回の研究は、それが不可能だと示した、という。

そこでチームは、最初から後ろ側の前駆細胞を狙って、人間の多能性幹細胞を誘導した。すると、活動電位と呼ばれる電気信号の波を実際に発する、後脳の運動ニューロンができあがった。顔の筋肉や飲み込みを受け持つ後脳の区画に特有のタンパク質も確認されている。入口を間違えていたから、出口にたどり着けなかったわけだ。

5億5000万年前から続く二本立て

5億5000万年前から続く二本立て

この二本立ては、人間やマウスだけの特徴ではなかった。研究チームは、ニワトリ、ゼブラフィッシュ、そしてギボシムシでも、同じような二つの起源の痕跡を見つけた。少なくとも5億5000万年以上にわたって受け継がれてきた仕組みだという。

ギボシムシは、浅い海の砂や泥に潜って暮らす、ミミズのような姿の生き物だ。脊椎動物の遠い親戚にあたるが、まとまった脳と呼べるものを持たず、神経は皮膚の下に網のように広がっている。それでも、脊椎動物で前脳や後脳をつくる遺伝子と同じ仲間の遺伝子が、体の前から後ろへ、ほぼ同じ順番で並んで働いていることが、2000年代の初めから知られていた。脳を持たない生き物の体に、脳の設計図だけが先に描かれていたことになる。

発表はさらに、6億年から7億年前に人間の祖先と枝分かれしたクラゲが、体の別々の端に二つの神経系を持っていることにも触れている。二つの起源を持つ脳は、奇妙な例外ではない。動物がずっと昔から採用してきた、二本立ての設計の名残なのかもしれない。

後ろの脳を作れると何が変わるのか

後ろの脳を作れると何が変わるのか

この研究が注目された理由は、雑学としての面白さだけではない。後脳の神経細胞が関わる病気の研究に、新しい道が開けるからだ。

代表的なのが、脊髄性筋萎縮症(SMA)である。運動ニューロンが失われていく遺伝性の病気で、1歳未満の子どもの命を奪う遺伝病の中で、最も多いものとされている。もう一つが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)で、多くは40歳から70歳の間に診断される。どちらも、飲み込みや呼吸をつかさどる後脳の運動ニューロンが深く関わるが、生きている患者の脳から、その細胞を取り出して調べることはできない。正しい入口から後脳の細胞を作れるようになれば、病気の進み方や薬の効き目を、試験管の中で確かめられるようになる。

意外なところでは、肥満の研究にもつながる。肥満症の治療薬として知られるセマグルチドなどのGLP-1受容体作動薬は、後脳にある、食欲を抑える神経回路に働きかけることが分かっている。2024年にNatureに出た研究では、後脳の中で満腹感を生む回路と、吐き気を生む回路が、別々に存在することも示された。後脳の細胞を正しく作れれば、副作用の少ない薬を探す手がかりになるかもしれない。

二つの臓器という言い方は言いすぎか

二つの臓器という言い方は言いすぎか

ただし、「脳は二つの臓器だった」という見出しは、少し割り引いて読む必要がある。完成した脳は、神経の線維で前後がびっしりとつながり、一つのシステムとして働いている。サンフランシスコ・クロニクル紙は、この研究を「脳は一つの臓器だ。ただ、始まりはそうではないのかもしれない」という見出しで伝えた。今回の発見はあくまで生まれ方の話であって、働き方が二つに分かれているという意味ではない。

しかも、話はここで終わらない可能性がある。脊髄は、脳とはまた別の、筋肉や骨にもなれる前駆細胞から生まれることが、以前から報告されている。研究チームも、次は脊髄の起源を詳しく調べると述べている。私たちの中枢神経は、二つどころか、三つの出自を持つ寄せ集めなのかもしれない。

ちなみに、脳をどう数えるかで人類が迷うのは、今に始まった話ではない。古代ギリシャのアリストテレスは、心は心臓に宿り、脳は血液を冷やすための器官だと考えていた。脳が思考の座だと広く認められるまでには、長い時間がかかっている。それから2000年以上たった今、その脳が、さらに二つに分かれて見えてきたわけだ。

まとめ

スタンフォード大学のチームは、脳の前の部分と後ろの部分が、胚のごく早い段階で別々の前駆細胞から生まれていることを示した。目印はOtx2とGbx2という二つの遺伝子で、二つの集団はDNAの巻き取られ方から違い、互いに交わらない。この仕組みはニワトリやゼブラフィッシュ、脳を持たないギボシムシにまで通じ、5億5000万年以上前から続いてきたと考えられている。後脳の細胞を正しく作れるようになったことで、SMAやALS、肥満の研究にも新しい道が開けた。考える脳と、息をさせる脳。あなたの頭の中では、今この瞬間も、出身の違う二つの脳が肩を並べて働いている。

出典・参考情報

  • [A] Nature Neuroscience「Two parallel neural ectoderm progenitors contribute to the developing brain」Jokhai, Dundes ほか(2026年9月18日)
  • [A] Stanford Medicine「Human brain is two separate organs, Stanford Medicine-led research finds」(2026年9月)
  • [A] Stanford Report「The human brain is two separate organs, study finds」(2026年9月)
  • [B] ScienceDaily「Stanford scientists discover the human brain may actually be two separate organs」(2026年9月21日)
  • [B] San Francisco Chronicle「The brain is a single organ. But it may not start that way, study suggests」(2026年9月)
  • [A] Nature「A role for Gbx2 in repression of Otx2 and positioning the mid/hindbrain organizer」Millet ほか(1999年)
  • [A] Nature「Dissociable hindbrain GLP1R circuits for satiety and aversion」(2024年)
  • [B] Nature Reviews Neuroscience「Early central nervous system evolution: an era of skin brains?」Holland(2003年)

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