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最初に見つけた人が、いなかったことにされた――33日で死んだ教皇と、48年続く毒殺説

宗教・カルト・呪術公開 2026年8月25日更新 2026年10月13日ザツレコ編集部
最初に見つけた人が、いなかったことにされた――33日で死んだ教皇と、48年続く毒殺説

1978年8月26日、アルビノ・ルチアーニがヨハネ・パウロ1世として選ばれ、33日後に急死した。バチカンは心臓発作と発表したが、「誰が発見したか」「何を手にしていたか」の説明が次々に訂正され、解剖も行われなかった。この小さなほころびが世界最大級の毒殺説を生む。ヤロップの告発、バチカンが雇った反論者、そして2017年に開いた書庫。48年ぶんの経緯を、事実と諸説を分けてたどる。

48年前の今日、1978年8月26日。バチカンのシスティーナ礼拝堂から白い煙が上がり、ヴェネツィア総大司教アルビノ・ルチアーニが新しい教皇に選ばれた。名はヨハネ・パウロ1世。よく笑う人だった。そして33日後、寝室で死んでいるのが見つかる。バチカンは心臓発作だと発表した。ところがその発表が、翌日から少しずつ言い換えられていく。誰が見つけたのか。何を手に持っていたのか。時刻はいつか。この「小さな訂正」が、世界最大級の陰謀論を48年間走らせることになる。今日は、その走り出した地点の話をする。

教皇が三人いた年

教皇が三人いた年

1978年は、カトリック教会にとって異常な一年だった。後に「三人の教皇の年」と呼ばれる。

8月6日、パウロ6世が80歳で死去。8月25日から26日にかけてコンクラーベ(教皇選挙)が開かれ、わずか一日、4回目の投票でルチアーニが96票を集めて選出された。近代でも屈指の速さである。そして33日後に彼が死ぬと、10月にもう一度コンクラーベが開かれ、ポーランドのカロル・ヴォイティワがヨハネ・パウロ2世となる。一年に教皇が三人。前回これが起きたのは1605年だった。

選ばれたルチアーニは、いきなり前例を壊しにかかった人物である。まず名前を二つつなげた。「ヨハネ・パウロ」という複合名の教皇は、歴史上ここが最初だ。次に戴冠式をやめた。三重冠(ティアラ)をかぶるのを断り、担ぎ椅子(セディア・ジェスタトリア)の使用もやめようとした。自分のことを複数形で呼ぶ慣習も捨てた。

ヴェネツィア時代には、教区の司祭たちに向かって「聖母像に人々が寄進した金や宝石を売って、貧しい人のために使え」と言っている。笑顔ばかりが有名になったが、決めるときは決める人だった。だからこそ、その死は「これから何かをやろうとしていた人が、始める前に消えた」という形に見えてしまう。

最初に見つけたのは修道女だった

最初に見つけたのは、修道女だった

1978年9月28日の夜から29日の未明にかけて、教皇は使徒宮殿の寝室で亡くなった。

翌朝、教皇の身の回りを世話していたシスター・ヴィンチェンツァ・タファレルが、前の晩に置いたコーヒーに手がつけられていないことに気づく。様子を見に部屋へ入り、そこで教皇を発見した。彼女はもう一人の修道女、シスター・マルゲリータ・マリンを呼ぶ。マリンが手に触れると、すでに冷たかった。爪が黒ずんでいたのが印象に残っている、と後に彼女は証言している。

ところがバチカンが世界に向けて発表した最初の説明は、こうではなかった。「秘書が見つけた」となっていたのである。

これは事実として、後にバチカン側が訂正している。列聖調査でシスター・マリンが宣誓のうえで証言し、当初の発表が誤りだったと確認された。当時なぜ修道女が消されたのかについては、教皇の寝室に女性が出入りしていたという体裁を避けたかったのだろう、という見方が一般的だが、公式な理由の説明は出ていない。

さらに「手に何を持っていたか」も揺れた。当初は信心書『キリストにならいて』とされ、後に、翌週の一般謁見で話す予定だった原稿の覚え書きだったと修正される。2022年、この紙片は列福式の聖遺物として教皇フランシスコに手渡された。骨や体の一部ではなく、10センチほどの黄ばんだ紙。そこには信仰・希望・愛という三つの徳についての走り書きがあった。

解剖はされなかった

解剖は、されなかった

もう一つ、火に油を注いだ事実がある。遺体の解剖が行われなかったことだ。

これも事実である。公式の説明はこうだ。当時、教皇の遺体の解剖を義務づける規定は存在しなかった。それを定めたのは1983年、ヨハネ・パウロ2世の時代である。そして解剖というのは疑いがあるときに要請されるものだが、教皇付きの医師だったマリオ・フォンターナとレナート・ブッツォネッティは、死亡報告書に「必要とは思わない」と書いた。遺体の状態と死斑から死亡時刻を割り出し、彼らは「突然死」と記載している。法医学で突然死と書けばそれは自然死を意味する、というのがバチカン側の説明だ。

ただし、当時の外から見た景色は違った。60代半ばの、健康だと言われていた人物が、就任から一か月で死んだ。解剖はしない。発表の中身は日ごとに変わる。遺体は速やかに防腐処理された。

疑うなという方が無理だった、というのが正直なところだろう。

毒殺説はこうして商品になった

毒殺説は、こうして商品になった

1984年、イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・ヤロップが『In God’s Name』を出す。ここから毒殺説が世界的な商品になった。

ヤロップの主張はこうだ。ルチアーニはバチカン銀行(正式名称は「宗教事業協会」)をめぐる腐敗を把握しており、死の当日にも人事の刷新を進めようとしていた。だから殺された。彼は聖職者と実業家あわせて六人の名前を挙げ、この教皇が生き続けたら困る人々が確かにいた、と書いた。

ここは慎重に扱う必要がある。これは検証されていない主張であり、教皇の死に関して誰一人として起訴も立件もされていない。

一方で、背景として本当にあった事実も存在する。バチカン銀行が大株主だったイタリアのバンコ・アンブロシアーノは、1982年に約35億ドル規模で破綻した。同行の頭取ロベルト・カルヴィは、破綻が表沙汰になる直前に姿を消し、1982年、ロンドンのブラックフライアーズ橋の下で首を吊った状態で見つかる。当初は自殺と判断され、遺族の求めで開かれた二度目の審問は結論保留となり、2002年、イタリアの裁判所が任命した法医学の専門家チームが「他殺」と結論した。カルヴィは非合法の組織「P2」の会員でもあった。バチカン銀行のトップだったポール・マルチンクス大司教は1982年にイタリアで同行破綻の共犯として起訴されたが、バチカン市国の立場を理由に身柄は移されず、裁かれないまま2006年に死去している。

つまり「バチカンの金庫の周りで、実際に不透明なことが起きていた」というのは事実だ。ヤロップはその事実を、教皇の死という別の出来事に接続した。陰謀論が強い感染力を持つのは、たいていこの接続が上手いときである。

反論者を雇ったのはバチカン側だった

反論者を雇ったのは、バチカン側だった

ここからが、この話の面白いところだ。

ヤロップの本が売れすぎたため、1987年、バチカンの広報を担っていたジョン・フォーリー大司教が、イギリスのジャーナリスト、ジョン・コーンウェルに調査を依頼する。デマを晴らしてほしい、という趣旨だった。関係者に会わせる、という条件つきである。

コーンウェルが出した結論は、確かに殺人説の否定だった。1989年の著書『A Thief in the Night』で、彼は死因を肺塞栓とみて、他殺ではないとした。ヤロップの説が成立するには遺体の発見時刻が公式発表より一時間ほど早くなければならないが、その根拠はバチカン放送とイタリアの通信社ANSAが最初に流した、時刻も部屋の配置も混乱した記事に依存している、と指摘した。ヤロップはシスター・ヴィンチェンツァから証言を取ったと述べていたが、その記録をコーンウェルに見せることは拒んでいる。

ところが、コーンウェルの本は依頼主を喜ばせなかった。彼が同時に書いたのは、この教皇は組織のなかで孤立し、働きすぎで、体調不良を訴えても適切な医療にたどりつけなかった、という「放置による死」だったからだ。殺人ではない。しかし無罪でもない。バチカンは、雇った反論者から別の角度で刺されたことになる。

書庫が開いた日

書庫が開いた日

決着に近づいたのは、ずっと後、列聖調査という別の目的の作業だった。

2017年、ジャーナリストのステファニア・ファラスカが『Papa Luciani. Cronaca di una morte(教皇ルチアーニ・ある死の記録)』を出す。彼女は列聖調査の副請願人という立場で、バチカンの非公開資料と、それまで沈黙していた証人にアクセスできた。約10年かけた作業である。

そこで分かったこと。教皇は亡くなる前夜、5分ほど激しい胸の痛みを訴えていた。しかし彼はそれを肋骨の痛みだと思い込み、医師を呼ぶなと指示している。修道女たちに「主が望まれるなら、また明日会いましょう。一緒にミサを立てましょう」と言って、寝室に入った。それが最後の言葉になった。

ファラスカの結論は、当時発表された死因、つまり心臓発作をそのまま裏づけるものだった。変わったのは死因ではなく、その周辺の記述の正確さである。誰が見つけたか。何を持っていたか。前夜に何があったか。48年かかって、記録の側が発表に追いついた。2022年9月4日、ヨハネ・パウロ1世は列福される。会見でファラスカはこう言っている。死から44年たっても、なぜ殺されたのかを人々がまだ問うているのは信じがたい、と。

まとめ

この一件が残した教訓は、けっこう身も蓋もない。

陰謀論を育てたのは、陰謀論者ではなかった。最初に「秘書が見つけた」と言い、後で「修道女でした」と直した側である。訂正そのものは誠実な行為だ。しかし訂正が小出しに、しかも複数回続くと、人は「本体にも隠しごとがある」と考える。しかも今回、隠したかったのは体面という、事件と何の関係もない理由だった。

情報を出す側の教訓は、最初のひと言を盛らないこと。受け取る側の教訓は、「発表が二転三転した」ことと「殺人があった」ことは、まったく別の命題だということ。この二つを混ぜないだけで、世の中のかなりの数の陰謀論は静かになる。

48年前の今日、よく笑う教皇が選ばれた。在位は33日で終わり、そのあと48年ぶんの物語が生えた。当人が最後まで手に持っていた紙切れに書いてあったのは、信仰と、希望と、愛の話だった。

出典・参考情報

  • [A] Vatican News「Pope John Paul I: Beatification overcomes fake news about his death」教皇庁記者会見の報告(2022年9月2日)
  • [A] BBC News「Call for third God’s banker inquest」ロベルト・カルヴィ死亡をめぐる審問報道(2002年12月4日)
  • [A] The New York Times「Archbishop Marcinkus, 84, Banker at the Vatican, Dies」(2006年2月22日)
  • [B] Crux「As sainthood bid heats up, book debunks conspiracies on John Paul I」(2017年11月6日)
  • [B] ステファニア・ファラスカ『Papa Luciani. Cronaca di una morte』(2017年)
  • [B] デイヴィッド・ヤロップ『In God’s Name』(1984年)※未検証の主張
  • [B] ジョン・コーンウェル『A Thief in the Night』(1989年)
  • [B] Encyclopaedia Britannica「Blessed John Paul I」
  • [B] Fox News「On this day in history, August 26, 1978, Pope John Paul I is elected」
  • [C] Wikipedia「Pope John Paul I conspiracy theories」「August 1978 papal conclave」(一次資料の所在確認に使用)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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