太平洋の西のはずれ、グアム島の南西に、地球でいちばん深い場所があります。マリアナ海溝。その最深部チャレンジャー海淵の深さは、最新の推定で1万935メートル。エベレストを逆さに沈めても、頂上の上にまだ2,000メートル以上の水が残ります。底の水圧はおよそ1,070気圧で、指先ほどの1平方センチに1トンを超える重さがのしかかる世界です。1960年、そこへ初めて降りた2人の男は、帰ってきて「魚を見た」と言いました。ところが今の科学では、その深さに魚はいられないはずなのです。いったい何がいたのか。どうしてこれほど深い溝ができたのか。そして人類より先に底へ着いていた、意外な「先客」とは。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

地球でいちばん深い溝は、プレートが沈む「傷口」だった
マリアナ海溝は、長さ約2,550キロ、幅は平均で約69キロ。三日月のような弧を描いて伸びています。この溝の正体は、プレートとプレートの境目です。東から押し寄せる太平洋プレートが、西側の小さなマリアナプレートの下へもぐり込んでいく。その折れ曲がった部分が、海底の深い谷になっているのです。
なぜここだけ深いのか。鍵はプレートの年齢です。この付近の太平洋プレートは、できてから最大で1億7000万年ほどたった最古級の海洋地殻で、冷え切って重い。だから急な角度で沈み込み、そのぶん溝が深くなります。
この沈み込みは、海の水まで地球の奥へ引きずり込んでいます。2018年、ワシントン大学セントルイス校のチームが、海溝の周りに19台の海底地震計を並べて1年以上観測した結果を、科学誌Nature に発表しました。水を含んだ岩の層は、海底の下およそ30キロまで続いていた。海溝から地球内部へ運ばれる水の量は、それまでの見積もりのおよそ4倍。研究チームは、世界全体で地球の深部へ入る水の見積もりを、約3倍に引き上げる必要があると述べています。海溝は、地球が水を飲み込む口でもあったのです。

深さを測るだけで、150年かかった
いちばん深い場所の深さは、実はつい最近まで、はっきり決まっていませんでした。最初に測ったのは、1875年のイギリス海軍の調査船チャレンジャー号です。重りを付けたロープを垂らす方法で、記録は約8,184メートル。海淵の名前は、この船から来ています。
1951年には2代目のチャレンジャー号が、ピアノ線と音の反射を使って約1万788メートルを記録しました。1957年にソ連の調査船が出した1万1,034メートルという数字は、長く教科書に載りましたが、今では外れ値と見なされています。
深さを測るのが難しい理由は、音にあります。船から音を出して、海底で跳ね返るまでの時間で深さを出しますが、音の速さは水温や塩分、水圧で変わるため、それを正確に知らないと数十メートル単位で誤差が出るのです。
2010年にはアメリカの調査船が音響測深で1万994メートルという値を出し、2019年には探検家ヴィクター・ヴェスコヴォの潜水艇が実際に底に着いて、圧力計で測りました。こうした測定を突き合わせ、水温や塩分の補正をやり直した2021年の研究が出した答えが、1万935メートル、誤差はプラスマイナス6メートル。人類が月に降り立ってから半世紀たっても、地球の底の深さは、まだ数メートル単位で詰めている最中なのです。

1960年、2人の男は5時間かけて落ちていった
1960年1月23日。アメリカ海軍のドン・ウォルシュ大尉と、スイスの技術者ジャック・ピカールは、潜水艇トリエステ号に乗り込みました。トリエステ号は、水より軽いガソリンを詰めた巨大な浮きの下に、2人がやっと入れる鋼鉄の球をぶら下げた乗り物で、重りの鉄の粒を捨てれば浮かび上がれる仕組みでした。
下りは約5時間。2人は1万911メートル前後に達し、底の「かぎタバコのような色の泥」に着地しました。舞い上がった泥で視界はほとんどなく、底にいられたのは約20分。帰りには3時間あまりかかりました。2人は底で握手を交わしたといいます。
このとき、ピカールは窓の外を何かが泳いでいくのを見た、と報告しました。平たい魚のような生き物だった、と。のちにウォルシュは「歴史をつくっているとわかっていた。特別な一日だった」と語っています。彼は2023年11月12日、92歳で亡くなりました。ピカールは2008年に亡くなっており、あの日、底で見たものを証言できる人は、もういません。
そして、この「魚を見た」という一言が、のちの科学者たちを悩ませることになります。

「魚を見た」は本当か――魚が生きられる限界は8,200メートル
2014年、ニュージーランドの国立研究所とイギリス、アメリカの研究者が、深海魚の体の中にある物質から、魚が生きられる深さの限界を割り出しました。発表先は米国科学アカデミー紀要です。
注目したのは、トリメチルアミンオキシド、略してTMAOという物質です。魚のたんぱく質は、強い水圧を受けると形が崩れます。TMAOはそれを支える安定剤の役目をしますが、深く潜るほどたくさん必要になり、量が増えすぎると今度は体の水分のバランスが保てなくなる。計算すると、硬い骨を持つ魚が耐えられるのは、水深およそ8,200メートルまで。それより深い、海全体のいちばん深い4分の1には、魚はいられないという結論でした。
実際の記録もこの線に沿っています。2022年、西オーストラリア大学と東京海洋大学のチームが、伊豆・小笠原海溝の水深8,336メートルで泳ぐクサウオの仲間を撮影し、魚の最深記録を塗り替えました。日本海溝では8,022メートルで2匹を捕獲しています。マリアナ海溝でも、マリアナスネイルフィッシュと呼ばれるクサウオが8,178メートル付近で撮影されています。どれも限界のすぐ手前です。
では、1万911メートルでピカールが見たものは何だったのか。今の知見とは合わないため、ナマコなど別の生き物か、舞い上がった泥の見間違いだった可能性が高いと考えられています。確かめる映像は残っていません。
ちなみに「マリアナ海溝に巨大ザメのメガロドンが生き残っている」という話は、根拠のない都市伝説です。メガロドンは約360万年前までに絶滅したと考えられ、餌の乏しい深海の底で巨体を保てる理由もありません。

それでも底は、生き物でにぎわっていた
魚はいなくても、海溝の底は空っぽではありません。最深部の泥の上には、ゼノフィオフォアという、ひとつの細胞なのに10センチを超えることもある巨大なアメーバの仲間が暮らしています。体長数センチのヨコエビの仲間、カイコウオオソコエビも群れていて、海洋研究開発機構は2012年、この生き物が沈んできた木の成分を分解する酵素を持っていると報告しました。
底の泥からは、7,000種を超える微生物が見つかり、その9割近くが新種だったという研究もあります。さらに2025年の夏、中国科学院の研究チームが Nature に、有人潜水艇「奮闘者」で千島・カムチャツカ海溝とアリューシャン海溝を調べた結果を発表しました。水深9,533メートルの海底で、ハオリムシの仲間や二枚貝が群れをつくっていたのです。日光の届かない場所で、地中からしみ出すメタンや硫化水素を微生物が使い、それを糧に動物が生きている。分布は2,500キロにわたっていました。深い海溝の底には、まだ知られていない生態系が広く眠っているのかもしれません。
海溝の上では、不思議な音も録音されています。低いうなりから金属音のような高音へ駆け上がる3秒前後の鳴き声で、研究者は「西太平洋バイオトワング」と名づけました。ミンククジラの声に近いものの、主はまだ確かめられていません。

人類より先に、レジ袋が底に着いていた
トリエステ号のあと、半世紀以上、誰も海淵の底へ行きませんでした。2012年3月26日、映画監督のジェームズ・キャメロンが一人乗りの潜水艇で単独潜航に成功します。2019年からはヴェスコヴォの潜水艇リミティング・ファクターが何度も底に通い、2020年には元宇宙飛行士のキャスリン・サリバンが、女性として初めて到達しました。同じ2020年11月には、中国の奮闘者も1万909メートルに達しています。それでも、2022年7月の時点で底まで行った人は27人。宇宙へ行った人よりずっと少ないのです。
ところが、人間より先に着いていたものがあります。海洋研究開発機構が30年分の深海映像をまとめた研究では、1998年に、水深1万898メートルで1枚のレジ袋が撮影されていました。確認された人工のゴミのうち3分の1以上が大きなプラスチックで、その9割近くが使い捨てのものでした。
汚れはゴミだけではありません。2017年、英国アバディーン大学のアラン・ジェイミソンらが、マリアナ海溝のヨコエビの体から、PCBという有害な化学物質を検出しました。その濃度は、汚染のひどさで知られる中国の川のカニの50倍でした。沈んできたプラスチックや死骸を食べるうちに、体にたまったと考えられています。
アメリカは2009年に、海溝の一部を含む海域を国の海洋保護区に指定しました。地球でいちばん遠い場所は、もう人間の手の届かない場所ではなかったのです。
まとめ
マリアナ海溝は、古く重い太平洋プレートが沈み込んでできた、長さ2,550キロの溝です。いちばん深いチャレンジャー海淵の深さは、150年かけて測り直され、今の推定は1万935メートル。1960年に初めて降りた2人が見たという「魚」は、魚が生きられる限界が8,200メートル前後とわかった今では、別の生き物だった可能性が高いとされています。一方で底には、巨大な単細胞生物やヨコエビ、新種だらけの微生物がいて、近くの海溝では9,500メートルを超える深さに動物の群れまで見つかりました。そして人類が27人しか行っていないその底に、レジ袋と化学物質が先に届いていた。地球でいちばん深い場所は、いちばん人間から遠い場所ではなく、人間の暮らしの行き着く先でもあったのです。
出典・参考情報
- [A] Greenaway, S. ほか「Revised depth of the Challenger Deep from submersible transects」NOAA(2021年)
- [A] Cai, C.; Wiens, D. A. ほか「Water input into the Mariana subduction zone estimated from ocean-bottom seismic data」Nature(2018年11月15日)
- [A] Yancey, P. H.; Jamieson, A. J. ほか「Marine fish may be biochemically constrained from inhabiting the deepest ocean depths」PNAS(2014年3月)
- [A] 西オーストラリア大学「Scientists break new record after finding world's deepest fish」(2023年4月)
- [A] 中国科学院深海科学与工程研究所ほか「Flourishing chemosynthetic life at the greatest depths of hadal trenches」Nature(2025年)
- [A] Chiba, S. ほか(海洋研究開発機構)「Human footprint in the abyss: 30 year records of deep-sea plastic debris」Marine Policy(2018年)
- [A] Jamieson, A. J. ほか「Bioaccumulation of persistent organic pollutants in the deepest ocean fauna」Nature Ecology & Evolution(2017年2月)
- [A] Kobayashi, H. ほか(海洋研究開発機構)「The hadal amphipod Hirondellea gigas possessing a unique cellulase」PLoS ONE(2012年)
- [A] Mariana Trench Environment and Ecology Research(MEER)プロジェクト報告 Cell(2025年)
- [B] オレゴン州立大学/ScienceDaily「Western Pacific Biotwang」(2016年12月)
- [B] AP通信 ドン・ウォルシュ氏の訃報(2023年11月)
- [B] 中国科学院「Fendouzhe completes 10,000-meter deep diving trial」(2020年11月)
- [B] Boessenecker, R. W. ほか「The Early Pliocene extinction of the mega-toothed shark Otodus megalodon」PeerJ(2019年)
- [C] Wikipedia「Challenger Deep」「Mariana Trench」(測深の歴史・到達者数の確認用)
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