1987年11月22日の夜、アメリカ・シカゴのお茶の間で、奇妙な出来事が起きた。ニュースを見ていた人、ドクター・フーの再放送を楽しんでいた人――そのテレビ画面が、突然乱れる。次の瞬間、そこに映っていたのは、テカテカしたプラスチックのマスクをかぶり、サングラスをかけた、不気味な人物だった。ゆらゆらと不自然に体を揺らし、ノイズまじりの奇声を上げる。そしてほんの数十秒で、何ごともなかったかのように番組へ戻る。放送局は、自分たちの電波を乗っ取られたのだ。犯人は誰なのか、何が目的だったのか。それが分からないまま、事件はもう40年近く迷宮入りしている。今日は、ネット時代になって「史上もっとも不気味なテレビハック」と呼ばれるようになった、この「マックス・ヘッドルーム事件(Max Headroom incident)」を、事実と諸説をていねいに分けながら追いかけていきたい。

9時14分、画面が乱れた夜
最初の異変は、1987年11月22日、日曜日の午後9時14分に起きた。シカゴの独立系テレビ局WGN-TVが、夜9時のニュース番組でスポーツコーナーを放送していた最中のことだ。突然、家庭の画面が15秒ほど真っ暗になり、そこへ一人の人物が現れる。かぶっていたのは、当時流行していたCGキャラクター「マックス・ヘッドルーム」のゴムマスク。背景には、波打つ金属板のようなものが回転し、本物のマックスの幾何学模様をまねているようにも見えた(事実)。ただし音声は乗っ取れなかったらしく、聞こえてくるのは耳ざわりなブーンという雑音だけ。人物はただ不気味に体を揺らし続けた。この割り込みはおよそ20秒から30秒ほど続き、WGNの技術者が放送信号の周波数を変えることで、ようやく制御を取り戻した。放送が戻ると、スポーツキャスターのダン・ローンは苦笑いでこう言ったという。「いったい何が起きたのか、私にも分かりません」。この時点では、たちの悪いイタズラの一つ、くらいの受け止めだった。ところが、事件はこれで終わらなかった。

2時間後、ドクター・フーに割り込んだ男
その夜の午後11時20分ごろ、今度はシカゴの公共放送局WTTWの電波が乗っ取られた。放送していたのは、イギリスのSFドラマ「ドクター・フー(Doctor Who)」の一編。物語のクライマックスで、画面はまたしてもあのマスクの男に切り替わる。今回は音声も乗っており、割り込みはおよそ90秒間も続いた(事実)。理由は単純で、この時間帯、送信塔には技術者が一人もいなかったからだ。局のスタッフは本部からモニターしていたものの、「手を打とうとしたが、どうにもできなかった」と後に語っている。その90秒間、マスクの男が口にしたのは、脈絡のない言葉の羅列だった。ライバル局WGNのスポーツキャスターの名前をあげてこき下ろし、本物のマックスがコマーシャルをしていたコーラをあてこするようにライバル飲料の缶を掲げ、古いアニメの主題歌を口ずさむ。そして「オレはまだXが見える」と、脈絡のないセリフを吐く。最後は下品な悪ふざけで、女性らしき人物に叩かれながら「来る、やつらが来る!」と叫び、唐突に映像は途切れた。番組はふたたびドクター・フーへ戻り、視聴者からは「今のは何だったんだ」という問い合わせの電話が局に殺到したという。悪意なのか、いたずらなのか、それとも何かのメッセージなのか。見た者の背筋を、じわりと寒くさせる90秒だった。

どうやって電波を乗っ取ったのか
ここで多くの人が抱く疑問は、そもそもどうやってテレビ局の電波を乗っ取れたのか、という点だろう。当時のテレビは、スタジオから送信塔へ、そして各家庭へと、電波(マイクロ波)で信号を送っていた。専門家の見立てでは、犯人はこの仕組みを突き、局が送っているものより強力なマイクロ波を送信塔へ叩き込むことで、いわゆる「キャプチャ効果(capture effect)」――強い電波が弱い電波を押しのけて優先される現象――を起こしたと考えられている(事実)。つまり、より強い電波で局の信号を上書きしてしまったわけだ。ただし、これは口で言うほど簡単ではない。FCC(連邦通信委員会)ものちに認めているように、この芸当には相当な技術的知識と、大きな送信出力が必要だった。しかも犯人は、二つの局の送信塔――片方はジョン・ハンコック・センター、もう片方はシアーズ・タワー――の両方を見通せる場所から発信していたとみられる。都心にそびえる二つの超高層ビルの両方が見える位置。それだけでも、犯人が土地勘と専門知識を持った人物だったことをうかがわせる。ちなみに、この手口はアナログ放送だからこそ成立したもので、アメリカのテレビが2009年にデジタル放送へ移行して以降は、ほぼ再現不可能になったとされている。1987年という時代の、すきまを突いた犯行だった。

FBIとFCCの捜査、そして時効
事件を受けて、FCCとFBIはただちに捜査に乗り出した。当時の報道によれば、犯人には最大で10万ドルの罰金と、最長1年の禁錮刑が科される可能性があると伝えられている。捜査当局は、映像に映り込んだ背景の質感や、二つの送信塔を見通せるという条件から、シカゴ市内の特定のエリアまで発信源を絞り込んだともいわれる。有力なタレコミもいくつか寄せられた。だが、決定的な物証も、名乗り出る者もいないまま、捜査は次第に行き詰まっていく。そして、時間だけが過ぎた。この種の電波妨害には5年の時効(公訴時効)があり、1992年、ついにその期限が過ぎてしまう。つまり、たとえ今、犯人が「あれは自分がやった」と名乗り出たとしても、もはや罪に問うことはできない(事実)。これほど大胆で、これほど多くの目撃者がいて、しかも記録映像まで残っている事件が、誰一人特定されないまま時効を迎えた。それ自体が、この事件の不気味さを際立たせている。犯人は今もどこかで、あの夜のことを黙って胸にしまっているのかもしれない。

犯人は誰か――内部犯行説とハッカー説
犯人像をめぐっては、長年さまざまな説が語られてきた。よく挙がるのが、大きく二つの方向だ。一つは「内部犯行説」。放送設備の仕組みを知り尽くしていることから、テレビ局に不満を抱えた従業員か、あるいは元従業員のしわざではないか、という見方だ(諸説)。もう一つは「ハッカー説」。当時、シカゴには技術好きが集まるアンダーグラウンドな文化があり、その界隈の腕自慢が悪ふざけでやってのけたのではないか、というものだ(諸説)。インターネットが普及してからは、匿名掲示板などで「関係者を知っている」という証言めいた書き込みも現れた。だが、そのどれもが決め手を欠き、裏づけの取れないまま今日に至っている(未検証)。ここで大切なのは、これらはあくまで「説」の段階にすぎず、実在する特定の個人を犯人と決めつけていいものではない、という点だ。ネット上では時おり「あの人物が犯人だ」といった断定的な書き込みが出回るが、公的に認定された犯人は、今この瞬間も一人もいない。謎は、謎のまま残されている。

なぜこの90秒は語り継がれるのか
考えてみれば、この事件で誰かがケガをしたわけではない。奪われたのは、たった十数秒と90秒の放送時間だけだ。それでもこの出来事が、40年近くたった今も語り継がれ、むしろネット時代に入ってから知名度を上げているのはなぜだろう。理由の一つは、あの映像そのものが持つ、名状しがたい不気味さだろう。テカテカのマスク、意味の分からない言葉、ノイズまじりの奇声。「本来は安全なはずのお茶の間のテレビに、見知らぬ何かが割り込んでくる」という体験は、人間の根源的な不安をくすぐる。もう一つは、この事件が「テレビをハッキングする謎の人物」というイメージの、いわば原型になったことだ。あるメディアは、これをサイバーパンク的なハッキング表現の元ネタの一つだと評している。実際、その後の映画やアニメには、放送に割り込む正体不明の人物というモチーフがくり返し登場する。そして何より、答えが出ていないこと。犯人も、動機も、あの「Xが見える」というセリフの意味も、すべてが宙づりのままだ。人は、解決した謎よりも、解けない謎のほうにこそ強く惹きつけられる。この事件が本当に残したものは、テレビ史に刻まれた不気味な90秒であると同時に、「身近なメディアは、思っているほど安全とはかぎらない」という、静かな問いかけなのかもしれない。あのマスクの下に誰がいたのか。それを知る者は、今もどこかで沈黙を守っている。今日も一つ、ムダな知識を、脳の墓場に。
出典・参考情報
- [A] WTTW News「30 Years Later, Notorious 'Max Headroom Incident' Remains a Mystery」(2017年11月21日/当事者局による回顧・証言)
- [A] WGN-TV「30 years later, Max Headroom hijack mystery remains unsolved」(2017年11月/当事者局の報道)
- [A] Chicago Tribune / Chicago Sun-Times(1987年11月24日/事件直後の一次報道・FCC罰則・技術者の証言)
- [B] Ars Technica「Thirty years later, "Max Headroom" TV pirate remains at large」(2017年11月22日/キャプチャ効果・捜査経緯)
- [B] Motherboard (Vice)「The Mystery of the Creepiest Television Hack」ほか(サイバーパンク文脈・技術的分析)
- [B] Encyclopedia類・Wikipedia「Max Headroom signal hijacking」(時系列・時効・諸説の照合)
- [C] 匿名掲示板等の内部犯行説・関係者証言(未検証の諸説として言及。実在個人を犯人と断定するものではない)
信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。本記事は特定の人物を犯人と断定するものではない。






