人体・医学の怪

人類最古のクスリは、歯が痛いから始まった――二万五千年前の口に残っていた、丸い溝の正体

人体・医学の怪公開 2026年9月10日更新 2026年10月13日ザツレコ編集部
人類最古のクスリは、歯が痛いから始まった――二万五千年前の口に残っていた、丸い溝の正体

二万五千年前のスラウェシ島の歯に、丸い溝が刻まれていた。溝をつけたのはビンロウの実。歯痛をしのぐために吸い続け、そのせいで歯がさらに削れていく。人類最古のクスリの習慣は、痛みから逃げるための悪循環だった。

歯が痛い。ただそれだけの理由で、人は二万五千年前から同じことをしていたらしい。2026年9月9日、科学誌サイエンス・アドバンシズに、インドネシアのスラウェシ島で見つかった二人の狩猟採集民の歯についての論文が出た。その歯には、見慣れない丸い溝が刻まれていた。溝を作ったのは、いまも東南アジアと太平洋で六億人が口に入れている、ある木の実である。人類が確認できるかぎり、もっとも古いクスリの習慣の痕跡だ。しかもその使い方は、痛みを止めるどころか、痛みの原因を育てる方向に働いていた。今日はその、氷期の口の中に残された悪循環の話をする。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

二万五千年前の歯に、丸い溝が並んでいた

2026年9月9日、科学誌サイエンス・アドバンシズに一本の論文が出た。オーストラリアのグリフィス大学を中心に、インドネシアのハサヌディン大学と国家研究革新庁が加わった共同チームの報告である。舞台はインドネシア、南スラウェシ。石灰岩の洞窟が並ぶこの一帯から掘り出された、二人ぶんの人骨が主役だ。

一人は氷期の狩猟採集民で、亡くなったのはいまから二万五千年前から一万六千年前のあいだ。もう一人はずっと新しく、七千六百年前から六千三百年前のあいだ。二人が生きた時代は、ざっと一万年以上離れている。共通点は歯だった。どちらの歯にも、深くて丸みを帯びた溝が、似たような場所に刻まれていた。

歯にできる溝そのものは珍しくない。繊維を歯でしごいて紐を作れば、細い直線的な切れ込みが残る。硬いものを噛み続ければ、平らにすり減る。ところがこの二人の溝は、どちらでもなかった。断面が丸く、へこみの底がなめらかで、直径一センチから二センチほどの球体を長いあいだ押し当て続けたような形をしている。研究チームはこれを、一生続いた癖の跡と呼んだ。

溝をつけたのは、いまも噛まれている実だった

丸くて、一センチから二センチくらいで、口の中に長く入れておくもの。研究を率いたアダム・ブラム教授は、歯の写真を見た瞬間に思い当たったという。ビンロウの実である。

ビンロウジュはヤシの仲間で、東南アジアから南太平洋にかけて広く育つ。その実は、いまもベテルクイッドと呼ばれる形で日常的に噛まれている。一般的なやり方は、実を割り、消石灰を少し塗り、キンマの葉で包んで口に入れるというものだ。石灰を加えるのは味付けのためではない。実に含まれるアレコリンという成分は、アルカリ性の条件でよく溶け出す。石灰は、成分を引き出すためのスイッチなのである。

ところが二万五千年前の彼らは、そのスイッチを持っていなかった可能性が高い。歯の溝の形は、割った欠片を噛んだ跡ではなく、丸ごとの実をそのまま口に含み、舌と歯のあいだで転がし続けた跡に見えたからだ。歯からは、ビンロウに由来する成分の痕跡も検出された。では、石灰なしで本当に効くのか。ここで研究チームは、少し変わった実験を始める。

カエルの卵に、二万五千年前の効きめを確かめさせた

まず、ビンロウの実を人工の唾液に漬けた。口の中を再現した液に、実を丸ごと入れて、しばらく置く。次に、その液を何に当てるかというと、カエルの卵である。

アフリカツメガエルの卵細胞は、実験でよく使われる。大きくて丈夫で、外から遺伝子を入れてやると、指示どおりのタンパク質を表面に作ってくれるからだ。研究チームはこの卵に、ヒトの脳にある神経の受け皿を作らせた。ヒトの神経のごく一部分だけを、カエルの卵の膜の上に再現したわけである。そこへ、さきほどのビンロウを漬けた人工唾液を流す。受け皿が反応すれば、電流として測れる。

結果は、反応ありだった。石灰を使わず、割りもせず、ただ丸ごと口に含んでいるだけでも、アレコリンは唾液のなかにじわじわ溶け出し、脳の働きを変えるだけの量になる。ブラム教授は、丸ごとの実を吸っているだけで生理的な作用を持つに足るアレコリンが出る、と述べている。効きめは現代の噛み方より穏やかだが、ゼロではない。二万五千年前の口の中で起きていたことを、カエルの卵が確かめたことになる。

痛みを止めようとするほど、痛みの元が育っていく

では、彼らはなぜそれを口に入れ続けたのか。研究チームが立てた筋書きは、快楽ではなく、痛みだった。

二人とも、亡くなったときには三十五歳を過ぎていたとみられる。当時の暮らしで、その年齢まで生きた口の中は、すでに相当な状態だったはずだ。すり減った歯、割れた歯、進んだ虫歯。アレコリンには、軽い高揚感のほかに、口のなかを麻痺させる作用がある。痛む側で実を転がしていれば、その場はいくらか楽になる。

問題はそこから先である。同じ場所に同じものを当て続ければ、歯は少しずつ削れていく。溝が深くなる。深くなった先には、歯の内側の神経が待っている。ブラム教授は、実を吸えば吸うほど歯の損傷はひどくなっていったと言い、露出した歯の神経の痛みを、耐えがたいものだったはずだと表現した。

痛いから吸う。吸うから削れる。削れるから、もっと痛い。歯に残された丸い溝は、その循環が何十年も回り続けた記録でもある。手元にある方法で痛みをしのぐしかなかった人が、その方法によって深みにはまっていく。二万五千年前の話なのに、どこかで見たことのある構図だ。

農耕より前に、人はもう効く植物を知っていた

この発見が大きく扱われたのは、年代のためである。

人が植物の効きめを利用してきた証拠は、これまでにもいくつも見つかっている。ただし、はっきりした習慣として跡が残っているものは、農耕が始まったあとに集中していた。土器にしみ込んだ酒の成分、住居跡から出るケシや大麻の種、埋葬に添えられた薬草。どれも、人が一か所に住み、植物を育てるようになってからの話だ。

今回の古いほうの一人は、その線をはるかに越えている。氷期の、まだ農耕のない世界。狩りをして、採って、移動しながら暮らしていた人が、特定の植物を選んで口に入れ、それを一生続けていた。しかも、新しいほうの一人とのあいだには一万年以上の開きがある。誰か一人の思いつきではなく、その土地で受け継がれていた習慣だったと考えるほうが自然だろう。

南スラウェシは、世界最古級の洞窟壁画が見つかっている土地でもある。氷期のこの島の人々は、壁に絵を描き、その口には、効く実の跡を残していた。

いまも六億人が、同じものを口に入れている

そしてこの習慣は、過去の話ではない。

ビンロウの実は、いまも世界でおよそ六億人が使っているとされる。ざっと十人に一人だ。インド、台湾、ミャンマー、パプアニューギニア、太平洋の島々。市場でも道端でも売られ、客に勧める作法まである、生活に深く入り込んだ嗜好品である。

一方で、2003年に国際がん研究機関は、ビンロウを含むベテルクイッドと、実そのものを、発がん性の分類でいちばん上のグループ1に置いた。タバコやアスベストと同じ枠である。長く使えば口腔がんの危険が上がり、口の粘膜が硬くこわばって口が大きく開かなくなる病気も知られている。二万五千年前の歯の溝は、単なる昔話ではなく、いま現在の公衆衛生の課題と一本の線でつながっている、ということになる。

研究チームも、この点ははっきり書いている。最古の記録を掘り当てたという興奮とは別に、その習慣がいまも人の口を壊し続けている、と。

まとめ

二万五千年前、氷期のスラウェシ島で、誰かが丸い実を口に含んでいた。理由はおそらく、歯が痛かったから。実は少しだけ効いて、そのぶん歯を削り、削れた場所がまた痛んだ。その繰り返しが丸い溝として歯に彫り込まれ、二万五千年後に掘り出された。

人類最古のクスリの記録は、酔うためでも、儀式のためでもなく、痛みから逃げるためのものだった。そして、その逃げ方があまり上手ではなかった。効く方法を見つけることと、正しく使うことのあいだには、二万五千年たっても埋まりきらない距離があるらしい。

出典・参考情報

  • [A] Science Advances「Betel nut sucking is the earliest recorded evidence for the habitual use of a neuroactive plant drug」(2026年9月9日)
  • [A] グリフィス大学 プレスリリース「Ice Age origins of one of humanity's oldest drug habits」(2026年9月10日)
  • [A] 国際がん研究機関(IARC)/世界保健機関「IARC Monographs Programme finds betel-quid and areca-nut chewing carcinogenic to humans」(2003年8月7日)
  • [B] ABC News(オーストラリア)「Traces of betel nut in 25,000-year-old teeth is earliest-known evidence of human drug use」(2026年9月10日)
  • [B] Phys.org「Ice Age origins of one of humanity's oldest drug habits discovered」(2026年9月10日)
  • [B] Archaeology News Online Magazine「World's oldest evidence of habitual drug use found in 25,000-year-old teeth in Indonesia」(2026年9月10日)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

タグ

ビンロウ
考古学
人類史
依存
スラウェシ
歯