1710年の夏、バルト海に面した港町タリンには、およそ2万人がひしめいていた。もとからの住民に、守備の兵士、戦火を逃れて流れ込んだ避難民、家を取り壊された近くの村人たち。そこへペストが入り込み、12月の半ばまでに約1万5,000人が命を落としたと記録されている。黒死病がヨーロッパを襲ったのは1340年代のことだ。それから360年以上がたっても、同じ病がまだ一つの町をほとんど空にしていたのである。2026年9月、この「黒死病のあと」の400年を、墓に眠る人々の歯から読み直した研究が、アメリカ科学アカデミー紀要に掲載された。面白がるためではない。疫病がどうやって何度も戻ってきたのかを知り、いまに生かす教訓とするために、この歴史を振り返っていきたい。

黒死病は一度きりの災厄ではなかった
黒死病は、1346年ごろに黒海の沿岸から地中海の港へ持ち込まれ、わずか数年でヨーロッパじゅうに広がった。死者の数には幅があるが、ユーラシア全体で7,500万人から2億人、ヨーロッパでは人口の3分の1から半分が失われたという推計がよく知られている。教科書では、ここで話が終わることが多い。
ところが、ペストはそこで去らなかった。1629年から1631年のイタリアではミラノの人口がおよそ半分になり、1665年にはロンドンが大流行に見舞われ、1679年のウィーンでは7万6,000人ほどが亡くなった。1720年のマルセイユでも、死者は10万人に達したとされる。歴史学ではこの長い流れをまとめて「第二次ペスト・パンデミック」と呼ぶ。6世紀のユスティニアヌスの時代に始まった最初の大流行に続く、二度目の波という意味だ。
この二度目の波は、19世紀の初めまで、およそ400年にわたって断続的に続いた。ここで素朴な疑問が残る。なぜ消えずに、何度も戻ってきたのか。ヨーロッパのどこかに病原菌が潜み続けたのか。それとも、よそから繰り返し運び込まれたのか。この問いは、長いあいだ決着がついていない。

墓の中の歯に、細菌の設計図が残っている
手がかりは、墓の中にある。ペストの原因はペスト菌という細菌で、感染した人の血液にまで入り込む。歯の内側には血管が通っているため、亡くなった人の歯の奥には、ときに何百年も細菌の遺伝情報が残る。これを取り出して読み、細菌のゲノムを組み立て直すのが、古代DNAと呼ばれる分野だ。
今回の研究を率いたのはエストニアのタルトゥ大学で、筆頭著者はマルセル・ケラー。研究をまとめたのはクリスティーナ・タンベツとクリスティアナ・シャイブで、記録の側からはスコットランドのスターリング大学の歴史学者フィリップ・スレイヴィンが加わった。ケンブリッジ大学のほか、オランダとスイスの研究者も加わった。
チームは、エストニア、ロシア、イギリス、オランダ、スイスの5か国、11か所の遺跡から、26件のペスト菌ゲノムを新たに組み立てた。バルト地域で最も古い第二次パンデミックの菌は、エストニア南部オテパーの14世紀後半の墓から出た。イギリスのクロプトンは15世紀半ばに人が去った廃村の墓地で、ケンブリッジのベネット通りには黒死病の犠牲者をまとめて葬った穴がある。これに加えて、すでに発表されていた64件のゲノムも見直した。

年代の幅を、系統樹で縮める
古い骨の年代は、ふつう放射性炭素で測る。ところが数百年前の骨だと、その答えは「何十年から、ときに100年以上の幅のどこか」という形でしか出てこない。ケラーは、歴史上のパンデミックでは、その時刻の目印がしばしば欠けているか、100年を超える幅になってしまうと説明している。これでは、年代記に書かれたどの流行の犠牲者なのかを言い当てられない。
そこでチームは新しい手を考えた。細菌は、代を重ねるごとに少しずつ遺伝情報が書き換わる。だから系統樹の上で、ある菌がどの枝のどのあたりに位置するかを見れば、ほかの菌より古いか新しいかがわかる。この順番の情報を放射性炭素の値と組み合わせて、年代の幅を絞り込んだのである。オランダのアーネムの試料では、幅を40年未満まで狭められた。
スレイヴィンは、多くの試料で年代の幅を改善でき、それによって特定のペストの波や流行と結びつけられるようになったと述べている。チームによれば、14世紀から18世紀のペスト菌ゲノムのほぼすべてを、記録に残る流行と系統立てて結びつけようとした試みは、これが初めてだという。

1450年ごろ、ペスト菌は三つに枝分かれした
系統樹を組み直すと、目を引く場所が一つあった。1450年から1500年ごろ、ペスト菌が短いあいだに一気に三つの大きな枝へ分かれていたのだ。一つの根元から、ほぼ同時にいくつもの系統が生えている形である。
この時期は、中央ヨーロッパを深刻な干ばつが襲った時代と重なる。研究者のあいだで「大ルネサンス干ばつ」と呼ばれる気候の危機だ。現代のペスト研究では、雨の多さや乾燥が野ネズミなど野生のげっ歯類の数を大きく揺さぶり、それが人への流行の引き金になることがわかっている。チームは干ばつを、ペスト菌の広がりに影響した可能性のある要因の一つとして挙げている。ただし、原因だと言い切ってはいない。
さらに、都市だけでなく農村の墓からも、これまで知られていなかった系統がいくつも見つかった。タンベツは、エストニアにはすでに14世紀の後半から、ペストが繰り返し入ってきていた証拠が見つかったと語っている。新しい系統の一部は、各地の野生のげっ歯類に新たな住みかを作った可能性があるという。17世紀から18世紀の枝の一つには、遺伝情報の大きな欠け落ちも見つかっているが、それが菌に何をもたらしたのかは、まだわかっていない。

軍隊と避難民が、病を運んだ
今回のゲノムは、戦争とも重なっていた。スイスのドマート・エムスで見つかった緊急の埋葬は、1629年から1631年の流行、つまり三十年戦争のさなかのものだ。シャイブは、戦乱の時期にペスト菌が新しい枝へ分かれていく様子が見えると述べている。兵士、追われた市民、避難民、商人。人が大きく動くたびに、菌も一緒に動いた。
冒頭のタリンは、大北方戦争の最中だった。1710年の8月にロシア軍が町に迫り、町は9月30日に戦わずに降伏した。城壁の内側には、スウェーデンの兵士、ロシアの兵士、そして市民が詰め込まれていた。12月の半ばには、城壁の内側に残っていたのは2,000人ほどだったという。生き残った人々は船で町を出て、その船がペストをフィンランドへ運んだ。
エストニアとラトビアにあたる地域全体では、1709年から1711年にかけて、住民の最大4分の3が亡くなったとも言われる。タリンの墓から見つかった犠牲者の一人は、ペスト菌に加えて梅毒の原因菌にも感染していた。二つの菌に同時にかかっていたことが古代DNAで確かめられた例は、これが世界で2件目だという。

居座ったのか、何度もやって来たのか
最初の問いに戻ろう。ペストはヨーロッパに居座ったのか、それとも何度もやって来たのか。2015年には、アジアの樹木の年輪から当時の気候を読み取った研究が、同じアメリカ科学アカデミー紀要に出た。中央アジアで雨の多い時期が来ると、その10年から15年後にヨーロッパの港でペストが再び流行している。だからペストは、アジアの野生のげっ歯類から繰り返し運び込まれていた、という主張だった。
ところが翌2016年には、バルセロナ、ドイツのエルヴァンゲン、ロシアのボルガルの犠牲者を調べた研究が、逆の結論を出した。ペスト菌は一度だけヨーロッパに入り、その後はどこか域内に潜み続けた、というのである。
今回の研究が描いた姿は、そのどちらとも少し違う。一つの場所にずっと居続けたというより、時代ごとに違う系統が、新しい地域に現れては入れ替わっていた。17世紀から18世紀に広がった枝は、いったんヨーロッパから退き、オスマン帝国の領域に住みかを作って、そこから何度も出てきた可能性があるという。1720年のマルセイユの流行は、地中海の交易路に乗ってきたと考えられている。ただし、どこに菌が潜んでいたのかという核心は、まだ仮説の段階にとどまっている。
まとめ
黒死病は、1340年代に一度来て去った災厄ではなかった。ペスト菌はその後400年にわたって枝分かれを繰り返し、干ばつの時代に一気に三つの系統へ広がり、戦争と人の移動に乗って、何度も町を空にした。2026年9月の研究は、墓に眠る人々の歯からその足取りを一つずつたどり、年代記に書かれた流行と結びつけてみせた。
ここから引き出せる教訓は、驚くほど今日的だ。病は、気候の揺らぎ、戦争、そして人の大移動が重なったところで勢いを増す。ペスト菌はいまも世界の一部の野生のげっ歯類のあいだに残っているが、抗生物質で治せる病気になった。変わったのは菌ではなく、それを見張り、止める側の仕組みのほうである。研究チームも、この歴史が現代の感染症の監視に役立つと述べている。何百年も前の歯が、いまの私たちに向けて、その見張りを怠るなと語りかけている。
出典・参考情報
- [A] Keller M. ほか「A refined phylochronology of the second plague pandemic in Western Eurasia」Proceedings of the National Academy of Sciences 123巻37号(2026年9月)
- [A] エストニア研究評議会/ScienceDaily「Ancient DNA reveals how plague kept returning for 400 years after the Black Death」(2026年9月20日)
- [A] スターリング大学「Study uncovers complex history of plague after the Black Death」(2026年9月)
- [B] ERR News「Waves of plague compounded by wars and drought in Estonia」(2026年9月)
- [B] Archaeology News Online Magazine「Plague after the Black Death returned in waves across Europe for centuries」(2026年9月)
- [A] Schmid B. V. ほか「Climate-driven introduction of the Black Death and successive plague reintroductions into Europe」PNAS(2015年)
- [A] Spyrou M. A. ほか、Cell Host & Microbe 掲載の黒死病ゲノム研究(2016年)
- [B] Wikipedia「Great Northern War plague outbreak」「Second plague pandemic」(2026年9月閲覧)
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