20世紀の初め、暗闇でぼんやりと緑色に光る、不思議な絵の具があった。ラジウムを混ぜたその塗料は、時計の文字盤を光らせる魔法の材料として、大量に使われた。そして、その細かな文字を筆で描く仕事に就いたのが、若い女性たちだった。彼女たちは会社に言われるまま、筆先を唇でととのえながら、来る日も来る日も文字盤を塗り続けた。だが、その「光る絵の具」は、少しずつ、彼女たちの体を内側から蝕んでいったのだ。今日は「ラジウム・ガールズ(Radium Girls)」の物語。決して怪談ではなく、実際に起きた悲劇と、そこから生まれた大切な権利についての話だ。あっても無くても人生に影響しない、けれど忘れてはいけないムダ知識である。

暗闇に光る「奇跡の絵の具」
発見されたばかりのラジウムは、当時、夢のような物質としてもてはやされていた。暗闇で自ら光を放つその性質は、まさに奇跡のよう。健康にすら良いと信じられ、ラジウム入りの水や化粧品まで売られていたほどだ。この光るラジウムを塗料に混ぜれば、電気のいらない、暗闇で光る時計の文字盤が作れる。第一次世界大戦の前後、この夜光時計は軍でも民間でも大人気となり、アメリカやカナダでは、およそ4000人もの人々がその製造に従事した。その多くが若い女性で、中には15歳ほどの少女もいた。ニュージャージー州オレンジにあった合衆国ラジウム社の工場では、300人ほどの女性が、一日に250枚もの文字盤を塗ったという。当時としては割のいい仕事で、彼女たちは誇りを持って働いていた。手先の器用さが求められる、繊細な作業だった。

「唇で筆を尖らせて」
問題は、その塗り方にあった。時計の細かな数字をきれいに描くには、筆の先を細くとがらせておく必要がある。そこで会社が指導したのが、「リップ・ディップ・ペイント」――唇で筆先をととのえ、塗料につけ、塗る、という手順だった。つまり彼女たちは、筆を口に含んで先をとがらせる、という動作を、一日に何百回も繰り返していたのだ。そのたびに、ごくわずかなラジウム入りの塗料を、口から体に取り込んでいたことになる。だが、ラジウムは体に良いとすら言われていた時代。誰も危険だとは思わなかった。それどころか、彼女たちは面白半分に、爪や歯にラジウム塗料を塗って、暗闇で光らせて楽しむことさえあったという。光る絵の具は、若い女性たちにとって、少し不思議で、楽しい仕事道具でしかなかったのである。

少女たちの体を蝕んだもの
やがて、異変が起き始めた。ラジウムは、化学的にカルシウムとよく似ている。そのため体に取り込まれると、骨に取り込まれて長くとどまり、そこから放射線を出し続ける。1920年代、リップ・ポインティングを続けた女性たちの体に、次々と深刻な症状が現れ始めた。とりわけ痛ましかったのが、あごの骨が崩れていく症状だ。歯が抜け、あごの骨が壊死し、いくら治療しても治らない。ある女性は、歯医者があごに触れただけで、骨がぼろりと崩れたと伝えられる。ほかにも、原因不明の激しい貧血、ちょっとしたことで骨が折れる骨折、そして体のあちこちにできる腫瘍――。若く健康だったはずの女性たちが、次々と病に倒れ、命を落としていった。彼女たちの身に起きていたのは、体の内側からじわじわと進む、放射線による被害だったのである。

会社は最初から知っていた
そして、この物語のもっとも許しがたい部分がある。実は、雇い主である会社は、ラジウムの危険性を知っていた可能性が高いのだ。工場では、ラジウムを直接扱う科学者や管理職は、鉛の遮蔽板やマスク、トングを使って、自らを放射線から守っていた。ところが、現場で毎日それを口に含んでいた女性たちには、「ラジウムは安全だ」と言い続けたのである。体調を崩した女性が出ても、会社は「原因は別の病気だ」とはぐらかし、責任を認めようとしなかった。この状況に光を当てたのが、ニュージャージー州の監察医ハリソン・マートランド医師らだった。彼は独自の検査法を開発し、女性たちの死や病が、体内に蓄積したラジウムによるものであることを、科学的に突き止めていく。安全だと言われて命を削られていた事実が、少しずつ明るみに出ていった。

立ち上がった「ラジウム・ガールズ」
黙って病に倒れることを、彼女たちは選ばなかった。オレンジの工場で1917年から働いていたグレイス・フライヤー(Grace Fryer)は、深刻なあごの障害に苦しみながらも、会社の責任を問うために立ち上がる。彼女を弁護してくれる人を見つけるだけでも、二年近くかかったという。1927年、グレイスを中心に、生き残った5人の元従業員が、かつての雇い主を相手に裁判を起こした。エドナ、アルビナ、クインタ、キャサリン――病に侵され、すでに満足に体を動かせなくなっていた彼女たちの訴えは、大きな注目を集めた。「ラジウム・ガールズ」と呼ばれた彼女たちの姿は、新聞を通じて世に知られ、世論を動かしていく。裁判は最終的に、法廷の外での和解という形で決着した。イリノイ州でも、キャサリン・ドナヒュー(Catherine Donohue)ら別の女性たちが、同じように会社を相手に闘い、勝利をつかんだ。命をかけた訴えだった。

彼女たちが変えた「働く人の権利」
ラジウム・ガールズの闘いが残したものは、計り知れない。それまで、危険な仕事で病気になっても、労働者が雇い主にその責任を問うことは、簡単ではなかった。だが彼女たちの事件は、「働く人が、仕事で負った病気について、雇い主に賠償を求める権利」を、はっきりと社会に認めさせるきっかけとなった。この訴えは、その後の労働安全衛生に関する法律や、労災補償の仕組みを大きく前進させていく。さらに、彼女たちの体に蓄積されたラジウムのデータは、のちの放射線の安全基準づくりにも貴重な資料として役立てられ、皮肉にも、後の時代の多くの人々を放射線の危険から守ることになった。1970年にアメリカで労働安全衛生局が設立される、その遠い出発点の一つが、この事件だったといってもいい。暗闇で光る絵の具に命を削られた若い女性たちは、決して報われない被害者としてだけ記憶されるべきではない。彼女たちが痛みと引き換えに勝ち取ったものの上に、今の私たちの「安全に働く権利」が立っている。その事実に、静かに敬意を払いたい。今日も一つ、ムダな知識を、あなたの脳の墓場に。
出典・参考情報
- [B] HISTORY「How the Radium Girls Forced Workplace Safety Reforms」(経緯・労働安全改革)
- [B] Wikipedia「Grace Fryer」「Radium Girls」(人物・裁判・和解)
- [B] Kate Moore『The Radium Girls』(当事者の記録に基づく評伝)
- [B] National Bureau of Standards / PMC(放射線安全基準への影響)
- [B] Explore the Archive「The Tragic Case of the Radium Girls」(労働者の権利への影響)
信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。数字は出典とセットで記載。被害者・ご遺族の尊厳に配慮し、再発防止と労働者の権利という教訓とともに記述しています。





