今日は8月30日です。1963年の今日、ワシントンとモスクワのあいだに、ある回線が開通しました。世界でいちばん有名な電話、いわゆる「赤い電話」です。
ただ、これから話すことのいちばん大事な部分を先に言ってしまいます。その赤い電話は存在しません。一度も存在したことがありません。それどころか、電話ですらありませんでした。
では何だったのか。そしてなぜ世界中の人が、「アメリカ大統領が赤い受話器を取ってクレムリンに直接かける」という絵を、これほど鮮明に思い浮かべられるのか。今日はその話をします。
ちなみに、この回線でワシントンからモスクワへ送られた記念すべき第一声は、「素早い茶色の狐は、のろまな犬の背中を飛び越えた」でした。

赤い電話は、一度も鳴らなかった
正式な名前は、ワシントン・モスクワ直通通信回線(Washington–Moscow Direct Communications Link)といいます。運用する米軍内部での通称はMOLINK。モスクワ・リンクの略です。
1963年8月30日に運用が始まりました。今日でちょうど63年になります。
中身はテレタイプでした。電信のプリンター、つまり文字を打って紙に印字する機械です。全二重の電信回線を2本、常時つなぎっぱなしにしておく。音声はありません。
なぜ音声にしなかったのか。ここがこの話のいちばん面白いところです。設計した人たちは、話し言葉は誤解されると考えました。声の調子、言いよどみ、通訳がとっさに選んだ単語。核戦争を止めるか止めないかの場面で、そういう不確定要素を持ち込みたくなかった。
だから指導者は自分の母語で「書き」ます。受け取った側が翻訳する。あえて遅く、あえて書き言葉にした。これは設計思想です。
そして端末は、ホワイトハウスにはありませんでした。ペンタゴンです。大統領の机の上には、最初から何もなかった。

返事に12時間かかった
なぜこんなものが必要になったのか。1962年10月のキューバ危機です。
このとき、公式の外交電報は届くのにおおむね6時間かかっていました。フルシチョフから届いた3000語の和解メッセージにいたっては、アメリカ側が受信して解読し終えるまでに12時間近くかかっています。そして返事を書いているあいだに、モスクワからもっと強硬な次のメッセージが届いてしまう。
そのあいだ両国が何をしていたかというと、テレビのニュースや記者を通じて、非公式に合図を送り合っていました。公式の外交ルートより、放送のほうが速かったからです。
直通回線というアイデア自体は前からありました。提唱者の一人がハーバードのトーマス・シェリング。のちにノーベル経済学賞を取る人です。シェリングは、ピーター・ジョージの小説『赤い警報(Red Alert)』が各国政府に直通通信の必要性を意識させた、と評価しています。
この小説は、のちに映画『博士の異常な愛情』の原作になります。つまりフィクションが先に回線を要求し、そのあと別のフィクションが赤い電話を発明した、という順番です。
1963年6月20日、ジュネーブで「直通通信回線の設置に関する覚書」に署名。米ソが、意図しない核戦争のリスクを下げるために正式に手を組んだ、最初の例になりました。
なお翌1964年、共和党は党の綱領でこれを批判しています。「証明済みの友好国より先に、宿敵とホットラインを開いた」と。当時は、これが弱腰に見えた人もいたわけです。

最初の一文は、茶色の狐だった
1963年7月、アメリカがラテン文字のテレプリンター4台をモスクワへ送りました。翌月、キリル文字の機械4台がワシントンへ届きます。こちらは東ドイツのシーメンス製でした。
回線の経路はこうです。ワシントンからロンドン、コペンハーゲン、ストックホルム、ヘルシンキを経てモスクワ。ロンドンまでは大西洋横断電話ケーブルのTAT-1を使います。総延長はおよそ1万マイル、1万6000キロほど。予備として、タンジール経由の無線回線も引かれました。
暗号にはノルウェー製のETCRRM IIという装置が使われ、方式はワンタイムパッドです。鍵となるテープは、それぞれの国が自国の大使館経由で相手に渡す。この方式のうまいところは、どちらも自国のより高度な暗号技術を相手に見せずに済むことです。全面的には信頼していない相手と回線を共同運用する、その現実的な答えがこれでした。
そして1963年8月30日、最初の送信。
「THE QUICK BROWN FOX JUMPED OVER THE LAZY DOG'S BACK 1234567890」
全部大文字です。機械が小文字に対応していませんでした。この文はアルファベット26文字をすべて含むパングラムで、後ろの数字と合わせると、印字テストとしては完璧な一文になります。
モスクワからの返信はロシア語で、夕暮れの情景の描写だったと伝わっています。当時のアメリカ側の操作員には、読めませんでした。
後日談があります。ソ連の外相アンドレイ・グロムイコが、アメリカの国務長官ディーン・ラスクにこう聞いたそうです。「あなたたちの言う『素早い茶色の狐がのろまな犬を飛び越えた』とは、いったいどういう意味なのか」。ラスクの回顧録に書かれています。

プーさんは、送ってはいけない
運用の実際を見てみます。
ペンタゴンの国家軍事指揮センターにMOLINKのチームが置かれ、8時間交代で詰めていました。1組は機材を見る下士官と、ロシア語が堪能で国際情勢に通じた将校が1人。翻訳はこの将校がやります。
回線は毎時テストされました。偶数時はアメリカから、奇数時はソ連から。24時間、365日です。
では、テストに何を送るのか。アメリカ側はシェイクスピア、マーク・トウェイン、百科事典、それに応急処置のマニュアル。ソ連側はチェーホフの作品などを送っていました。
ここに、素晴らしい配慮が一つあります。MOLINKの担当者は、含みや比喩に取られかねない文章を意図的に避けていました。避けた例として名前が挙がるのが『くまのプーさん』です。クマはロシアの象徴だからです。
真夜中に唐突にクマの話が届いたら、向こうは何かのサインだと考えるかもしれない。世界を終わらせないために、プーさんは送らない。運用というのは、こういう地味な判断の積み重ねでできています。
カーター政権のころには、ソ連側から「日常的な連絡にはこの回線を使わないでほしい」という申し入れがあったそうです。この回線が動くこと自体が緊急を意味する、という状態を保っておきたかったわけです。
受信したメッセージは英語に訳され、ロシア語の原文と英訳の両方がホワイトハウスの状況室へ送られます。ただし内容が差し迫った事態、たとえば誤射のようなものを示していれば、正式な翻訳を待たずに要旨を電話で状況室の当直に伝え、当直が大統領に上げる。そういう抜け道も用意されていました。

回線を切ったのは、ブルドーザー
実際に使われた場面を並べてみます。1963年のケネディ暗殺。1967年の六日戦争。このときジョンソン大統領がコスイギンに宛てたのが、実質的な最初の使用です。1968年にはアポロ8号の飛行状況を伝えています。1971年の印パ戦争、1973年の第四次中東戦争、1974年のトルコによるキプロス侵攻、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻、1981年のポーランド情勢、1982年のレバノン、1991年の湾岸戦争、2001年の同時多発テロ、2003年のイラク戦争。2016年10月31日には、オバマ大統領が選挙介入をめぐる警告をこの回線で送っています。
一方で、この回線は間抜けな理由でも何度か切れています。コペンハーゲン近郊では、デンマークのブルドーザーが土を掘っていて切断しました。フィンランドでは、農夫がトラクターで畑を耕していて引きちぎっています。
核戦争を防ぐための世界最重要の通信線が、畑仕事で切れる。だからこそ、毎時テストが必要だったわけです。
技術は更新されていきます。1971年9月、衛星回線が追加されました。アメリカのインテルサット2機と、ソ連のモリニヤII 2機です。このとき米ソは「いつ使うか」を初めて取り決めました。核兵器がらみの事故、無許可の事象、原因不明の事象が起きたら、即座に相手へ通報する、と。
1983年5月、レーガンが高速ファクスの追加を提案し、1984年7月17日に正式合意。1986年にファクス端末が動き始め、1988年にテレタイプ回線が切られました。25年で役目を終えたことになります。
そして2008年1月1日、専用のコンピュータ回線に切り替わりました。チャットとメールを使い、送信はほぼ瞬時です。

神話は、ハリウッド製
では、赤い電話はどこから来たのか。
1964年に2本の映画が公開されています。シドニー・ルメットの『未知への飛行(Fail-Safe)』と、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』。どちらも、さきほど出てきたピーター・ジョージの1958年の小説『赤い警報』を下敷きにしています。
『未知への飛行』には、ホットラインの電話が出てきます。しかもモノクロ映画なのに「赤い電話」と呼ばれる。観客は、見えていない色を見ていたわけです。
1960年代後半のテレビドラマ『バットマン』の「バットフォン」も赤い受話器でした。『それ行けスマート』でも笑いのネタになっています。
決定的だったのは、たぶん選挙広告です。1984年、民主党の予備選でウォルター・モンデール陣営が、対立候補ゲイリー・ハートの経験不足を突くCMを作りました。ナレーションはこうです。「世界でもっとも畏るべき責任は、この受話器を取る手にある」。
同じ年の本選では、レーガンの戦略防衛構想を批判するCMで、赤い電話が鳴り続けて誰も出ません。「大統領を起こしている時間はない。コンピュータが判断する」。
このCMを作ったロイ・スペンスは、2008年、ヒラリー・クリントン陣営のために同じ手をもう一度使います。有名な「午前3時の電話」です。
つまり半世紀にわたって、実在しない装置がアメリカの選挙で繰り返し使われ続けたことになります。
なお、ホワイトハウスに赤い電話がまったく無かったわけではない、という指摘もあります。ただしそれは国内の指揮系統につながる回線で、モスクワ直通ではなかった。ここは資料によって記述が分かれるので、諸説として置いておきます。
確実なのは一つ。モスクワとの回線は、電話ではありませんでした。
まとめ
この回線は、今日で63年目に入りました。
この話から持ち帰るものを、三つ挙げます。
一つ。設計した人たちは、いちばん危ない場面で、いちばん速い手段をあえて選びませんでした。声は速いが誤解される。書き言葉は遅いが、読み返せる。翻訳を挟むぶんの時間が、そのまま考える時間になる。速さより正確さを取った判断です。急ぐべき場面ほど、急がない仕組みが要る、という話でもあります。
二つ。敵同士でも、限定的な協力の形は作れるということ。ワンタイムパッドという方式は、相手に自分の手の内を見せずに一緒に運用するための工夫でした。全面的に信頼していない相手とでも、目的を一つに絞れば仕組みは組める。
三つ。私たちの頭の中にある絵は、たいてい誰かが作ったものだということ。赤い電話は映画の小道具でした。それが選挙広告になり、当たり前のイメージになり、いまも「冷戦のホットライン」と聞けば最初に浮かんできます。物語のほうが、事実より覚えやすいからです。
だからときどき、こうやって裏を取る価値があります。
1963年8月30日、ワシントンからモスクワへ送られた最初の言葉は、素早い茶色の狐がのろまな犬の背中を飛び越えた、でした。世界を滅ぼさないための回線が、まずやったのは、全部の文字がちゃんと印字されるかを確かめることだったわけです。
出典・参考情報
- [A] 米国務省「Hot Line Agreement (1963)」「Hot Line Modernization Agreement」条約テキスト
- [A] 米国家安全保障局(NSA)機密解除文書 Cryptolog「DCL: The Direct Communications Link」(1983年12月)
- [A] Dean Rusk『As I Saw It: A Secretary of State's Memoirs』(1991年/グロムイコとのやり取り)
- [B] Smithsonian Magazine「There Never Was Such a Thing as a Red Phone in the White House」(2013年6月)
- [B] The New York Times マガジン「Moscow's Still Holding」(1988年9月18日/MOLINK運用の詳細)
- [B] HISTORY「Hotline established between Washington and Moscow, August 30, 1963」
- [B] Thomas Graham / Damien La Vera『Cornerstones of Security: Arms Control Treaties in the Nuclear Era』(2002年)
- [B] Garrett M. Graff『Raven Rock』(2017年/ETCRRM IIとワンタイムパッド)
- [B] Anatoly Dobrynin『In Confidence』(1995年/毎時テストの運用)
- [B] Electrospaces.net「The Washington-Moscow Hot Line」/「The red phone that was NOT on the Hotline」
- [B] Voice of America「'Hotline' Established Between US, Former Soviet Union on This Day in 1963」
信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。




