生物・自然の奇妙

毎週5億匹のハエを、空からばらまいている国がある――60年前に消したはずの虫が、テキサスに帰ってきた

生物・自然の奇妙公開 2026年9月15日更新 2026年9月23日ザツレコ編集部
毎週5億匹のハエを、空からばらまいている国がある――60年前に消したはずの虫が、テキサスに帰ってきた

アメリカが60年前に大陸から消し去ったラセンウジバエが、2026年6月にテキサスで見つかった。生きた肉だけを食べるこのハエを消したのは、不妊にしたオスを飛行機から毎週何億匹もばらまくという作戦だった。壁が破れるまでの70年と、いま進んでいる二度目の掃討をたどる。

アメリカ政府は、いま毎週何億匹ものハエを工場で育てている。育てたハエには放射線を当て、飛行機に積んで、空からばらまく。害虫を駆除するために、その害虫そのものを大量に放つ。字面は倒錯しているが、これは70年前に一度成功し、ある虫を北アメリカ大陸から丸ごと消し去った方法である。その虫が2026年6月、テキサスの牧場で見つかった。今日は、一匹のハエを消すために国がどこまでやったか、そしてその成果がどうやってほどけていったかの話である。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

生きている肉しか食べない虫

ラセンウジバエという。英語ではニューワールド・スクリューワーム、学名はコクリオミイア・ホミニウォラクス。ホミニウォラクスは「人を食らうもの」という意味で、誇張ではない。

ハエの仲間の多くは、死んだ肉や腐ったものに卵を産む。ところがこの種は、生きた動物の傷にしか卵を産まない。牛でも、羊でも、鹿でも、犬でも、人でもいい。かすり傷、ダニに噛まれた跡、生まれたばかりの子牛のへその緒。そこに一度に200から300個の卵を産みつける。孵った幼虫は、死んだ組織には目もくれず、健康なほうの肉へ潜っていく。

「ねじの虫」という英名は、この潜り方から来ている。木ねじが板に食い込むように、体をねじりながら傷の奥へ入っていくのだ。手を打たなければ、大きな牛でも一週間から二週間で死ぬ。当の成虫はといえば、青緑の金属光沢のある体に、オレンジがかった赤い目、背中に三本の黒い筋という、案外きれいな見た目をしている。飛べるのは、一生かけてもおよそ20キロ。この「あまり遠くへ行けない」という性質が、のちに効いてくる。

「そんなに大量のハエを去勢できるわけがない」

1930年代のアメリカ南部で、この虫は農業の風景そのものを変えていた。1935年には、テキサス州の半分にも満たない数の郡から、18万頭の家畜が死んだという報告が出ている。

テキサス州メナードにあった農務省の研究所に、エドワード・クニップリングとレイモンド・ブッシュランドという二人の昆虫学者がいた。1937年から、彼らは午後になると飼育箱のハエを眺めて過ごしていた。そこでクニップリングが妙なことに気づく。オスは何度でも交尾するのに、メスは三週間ほどの生涯に、たった一度しか交尾しない。

ここから出てきた発想が、当時の常識の外にあった。不妊にしたオスを大量に放てば、メスはその一度きりの機会を無駄に使うことになる。卵は孵らない。次の世代が減れば、放したハエの比率は相対的に上がり、減り方は加速する。最後には自分で自分を絶やす。同僚たちは笑ったという。「そんなに大量のハエを去勢できるわけがない」。

答えは放射線だった。1950年、クニップリングはノーベル賞学者のヘルマン・J・マラーに手紙を書き、「あなたの理論は正しい」という返事を受け取る。ブッシュランドは近くの陸軍病院からX線装置を借り、交尾する気力は残したまま不妊にできる線量を探し当てた。大量処理には、のちにオークリッジ国立研究所から取り寄せた放射性コバルトが使われている。

島が、ひと夏で静かになった

1951年、フロリダのサニベル島で最初の野外試験が行われた。効果は出たが、島が本土に近すぎて、外から飛んでくるハエに埋め戻されてしまう。

本番は1954年のカリブ海だった。前年、キュラソー島の獣医B・A・ビッターから被害の相談が届いていた。オランダ領のこの島は本土から遠く、外から入ってこられる心配がない。チームは不妊にしたオスを飛行機から撒いた。当時の記録は、これを「昆虫による空襲」と呼んでいる。三か月後、島のヤギの傷から採れる卵は、一つも孵らなくなっていた。1955年5月25日付の見出しは、「原子とロマンスがラセンウジバエを打ち負かした」だった。

ここからは国家事業になる。1958年にフロリダ州議会が予算を付け、週5000万匹を生産する工場が立ち上がる。翌1959年には、ミシシッピ川から東でこの虫が消えた。続いてテキサスである。ミッションに置かれた工場は、最盛期に週1億5000万匹を出荷した。1966年、アメリカは国内に土着のラセンウジバエがいないと宣言する。

もっとも、宣言で話が終わったわけではない。1967年にはハリケーンのあと、テキサスの67の郡で835件が出た。1972年には、前年に444件だったものが9万件に跳ね上がっている。国境の向こうから飛んでくる以上、自国の中だけ消しても意味がない。戦線は南へ動き、1976年にメキシコとの合同委員会ができ、1980年に北部の州、1991年にはメキシコ全土から姿を消した。国内で最後の一例が報告されたのは1982年である。

パナマに引かれた、ハエでできた国境線

南下は中央アメリカを順に抜けていった。1998年にパナマで不妊バエの散布が始まり、2006年にパナマが清浄化を達成する。そこで作戦は止まった。力尽きたのではない。そこが止めどころだったのだ。

パナマとコロンビアの境には、ダリエン地峡という道路の通じていない密林がある。大陸が最も細くくびれ、虫の通れる幅がいちばん狭い。ここに不妊バエを撒きつづければ、南アメリカに残った個体群は北へ上がってこられない。生物でできた検問所である。一生に20キロしか飛べない虫だからこそ、この線引きが成り立つ。

検問所を支えているのが、パナマ運河のそばにあるCOPEGの工場だ。ここでは幼虫に、牛の血と卵と乳と繊維を混ぜた餌を与えて育てる。建物の周りには、かすかに腐った肉のにおいが漂うという。蛹の段階で放射線を当て、週に1億匹以上を、週六便の飛行機でダリエンの上空から撒く。緊急用の予備も抱えていて、2016年にフロリダキーズで絶滅危惧種のキージカが襲われたとき――およそ1000頭の群れから、少なくとも135頭が死んだ――は、この備蓄が飛んだ。

つまり北アメリカの「ラセンウジバエがいない」という状態は、自然にそうなっているのではなかった。毎週飛行機を飛ばしつづけることで、かろうじて維持されている状態だったのである。

壁は、三年かけてほどけた

2023年、その壁が抜けた。原因は一つではないとされる。新型コロナの流行で不妊バエの生産と散布が滞ったこと、家畜が検査を通らないまま動いたこと、そしてダリエン地峡が、そもそも見張りにくい土地であることだ。

いったん北へ出た虫は、中央アメリカを順に上がっていった。2024年11月にメキシコで最初の症例が確認される。アメリカは2025年5月に、メキシコからの牛の輸入を止めた。同年8月には、エルサルバドルから帰国した人からアメリカでおよそ10年ぶりの人体症例が確認されている。

数字は、そこから跳ね上がった。米疾病対策センターの集計では、2023年の突破以降、中央アメリカとメキシコで確認された動物の症例は20万9400件を超え、人の症例は2500件を超えている。2025年6月には、不妊バエを積んだ飛行機がメキシコ南部で墜落し、グアテマラ人の操縦士二人とメキシコ人の技術者一人が亡くなった。ハエを撒く仕事は、のどかな作業ではない。

テキサスに帰ってきた日

2026年6月3日、テキサス州ザバラ郡の牛から、ラセンウジバエが確認された。国内で最後の一例が出てから44年ぶりである。四日後にはラサール郡と、ニューメキシコ州リー郡にも広がった。ニューメキシコの一例は、牛ではなく犬だった。

夏のあいだに、テキサス西部の郡へ順に広がる。牛、羊、ヤギ、犬。9月5日の時点で確認されているのは48件で、うち47件がテキサス、1件がニューメキシコ。最後の一例は8月31日、バルベルデ郡のヤギだった。9月1日には、テキサス州境から3キロほどのメキシコ側オヒナガでも症例が出た。

対抗手段は、70年前と同じである。ただし桁が違う。今回の作戦で必要とされている散布量は、週5億匹だ。2026年2月に運用が始まってから撒かれたのが7億9500万匹、メキシコはこの18か月で70億匹近くを放っている。6月28日にはメキシコ・チアパス州の生産工場が動きはじめ、週2800万匹から年内に1億匹へ増やす計画が進む。テキサス州エディンバーグのムーア空軍基地跡にも、7億5000万ドルをかけた工場が建設中だ。

放射線に頼らない手も試されている。ノースカロライナ州立大学のマックスウェル・スコットらが開発した、オスしか生まれないように遺伝子を改変した系統だ。メスを撒かずに済むぶん効率がよく、環境保護庁の承認を待っている。

そして2026年9月14日、カリフォルニア大学サンディエゴ校とサンディエゴ郡が、この虫の危険度を地域ごとに追うダッシュボードを公開した。疾病対策センターの資金で動く「レジリエント・シールド」という枠組みで、イライア・アロノフ・スペンサーとナターシャ・マーティンが率いている。チームのマーク・ビーティーは、こう言っている。「もともとこの虫がいた場所に戻ってきただけなので、根づいたとしても驚くことではない」。

まとめ

一匹のハエを消すために、アメリカは工場を建て、原子炉の副産物を取り寄せ、飛行機を飛ばしつづけた。1950年代に南部で毎年出ていた5000万から1億ドルの損害は消え、業界は年9億ドル以上を浮かせ、牛肉の値段は数パーセント下がった。クニップリングとブッシュランドは1992年に世界食糧賞を受け取り、この方法は「20世紀最大の昆虫学的成果」と呼ばれた。

ただ、その成果は完成品ではなかった。維持費を払いつづけているあいだだけ存在する状態であって、飛行機が止まれば、虫は元いた場所へ戻ってくる。三年ほど手が緩んだだけで、60年分の仕事は南から順にほどけていった。

いま北アメリカの空からは、また毎週何億匹ものハエが落ちている。害虫駆除というより、国境線を引き直す作業に近い。私たちが「その虫はもういない」と思っている土地の多くは、たぶん同じように、誰かが毎週何かを撒きつづけている土地なのだろう。

出典・参考情報

  • [A] 米農務省動植物検疫局(USDA APHIS)「USDA Confirms Presence of New World Screwworm in the United States」および New World Screwworm 現況ページ(2026年6月〜9月)
  • [A] 米疾病対策センター(CDC)「New World Screwworm Outbreak — Situation Summary」(2026年9月時点)
  • [A] カリフォルニア大学サンディエゴ校/サンディエゴ郡保健福祉局「Resilient Shield」ラセンウジバエ危険度ダッシュボード(2026年9月14日公表分)
  • [A] 世界食糧賞財団 1992年受賞者 エドワード・F・クニップリング/レイモンド・C・ブッシュランド 業績記録
  • [A] ゴールデン・グース賞 2016年受賞「The Sex Life of the Screwworm Fly」(サニベル島・キュラソー島の試験経過)
  • [B] American Society for Microbiology「New World Screwworm: Rise, Fall and Resurgence」(2025年9月)
  • [B] The Texas Tribune「How history is guiding a U.S. attempt to beat screwworm again」(2026年6月25日)
  • [B] American Veterinary Medical Association「How will the US eradicate screwworm this time?」(不妊バエ生産施設と散布実績)
  • [B] National Geographic「Inside the program that breeds billions of screwworm flies each year」(COPEG工場とダリエン地峡の障壁)
  • [B] ScienceDaily「The U.S. eradicated this flesh-eating parasite. Now it's back」(2026年9月14日)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

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