1949年8月29日の午前7時、カザフスタンの草原が光りました。今日でちょうど77年になります。
1991年8月29日、その草原で40年以上続いていたことが、一枚の大統領令で終わりました。こちらは35年前の今日です。
そして2009年、国連総会は8月29日を「核実験に反対する国際デー」に定めました。同じ日付が、三度出てきます。
場所の名前はセミパラチンスク核実験場(Semipalatinsk Test Site)。ソ連が456回の核実験を行った草原で、いまはカザフスタンの領土です。今日はこの土地で起きたことを、事実と証言と諸説に分けてたどります。話の途中に、ブルセラ症という家畜の病気の名前がついた病院が出てきます。その名前は、ウソでした。

午前7時、草原が光った
1949年8月29日午前7時。ソ連にとって初めての核実験が行われました。装置の名前はRDS-1、ソ連側のコードネームは「最初の稲妻」。アメリカがつけた呼び名は「ジョー1号」で、これはヨシフ・スターリンのファーストネームから取ったものです。威力は22キロトンでした。
場所はカザフ共和国の北東部、イルティシ川に近い草原。ソ連はこの一帯をまるごと実験場にします。広さはおよそ1万8000平方キロメートル。四国よりひとまわり大きいくらい、と言えば見当がつくと思います。
ここで、当時から分かっていた話を一つ。RDS-1の構造は、アメリカが長崎に落とした「ファットマン」とほとんど同じでした。ロスアラモスの研究所にいた物理学者クラウス・フックスらが渡した情報が使われています。フックスは1950年に自白しました。ソ連の科学者たちの実力を軽く見るべきではありませんが、この一発が数年早まった理由の大きな部分がスパイだった、というのが今の通説です。ここは確認された事実として扱われています。
アメリカ側がこの爆発に気づいたのは、9月に入ってからでした。太平洋の上空を飛んでいた観測機のフィルターに、あるはずのない放射性物質が付いていた。冷戦の核軍拡競争は、この日から始まります。

「無人だ」と報告された土地
実験場の候補地を選ぶ責任者は、秘密警察の長官ラヴレンチー・ベリヤでした。1947年、彼はこの草原を「無人だ」と報告しています。
無人ではありませんでした。実験場のまわりには村があり、町があり、合わせて百数十万人が暮らしていました。もっとも近い集落は、爆心から数十キロの距離です。
そして1949年から1962年までの116回は、大気圏内の実験でした。地下ではなく、空の下で爆発させています。
生き延びた人たちが後年に語った証言では、実験の日に「家が崩れるかもしれないから外に出ていなさい」と言われることがあったそうです。避難ではありません。屋外に出て、そのまま見ていた。空が光り、少し遅れて衝撃波が来て、窓ガラスが割れた。そういう話がいくつも記録されています。放射性物質については、説明されていません。
1956年、実験の一つで風下の住民に急性の症状が出ました。ここで軍は、あることを始めます。

病院の看板は、ウソだった
1957年、実験場に近い町セミパラチンスクに、一つの医療施設が作られました。名前は「反ブルセラ症第4診療所」。ブルセラ症は家畜からうつる細菌の病気で、牧畜がさかんな土地に置く看板としては、まったく不自然ではありません。
この施設の本当の仕事は、ブルセラ症ではありませんでした。核実験で被曝した住民の健康状態を長期にわたって観察し、データを集めることです。治療の拠点でもありましたが、同時に観察の拠点でもありました。ここは記録で確認されている事実です。
診察を受けた人たちは、自分が何を調べられているのかを知らされていません。結果も理由も説明されないまま、通い続けた人がいます。
集められたデータからは、はっきりした結果が出ました。1954年から1989年までの分析で、汚染地域の悪性腫瘍の発生率は、そうでない地域より33.4%高いという数字が残っています。
1991年、独立したカザフスタン側がこの施設を開けようとしたとき、記録の一部はすでに破棄され、一部はモスクワへ持ち去られたあとでした。
建物そのものは残っています。いまは「放射線医学・生態学研究所」という名前で、同じ土地の住民の治療と研究を続けています。看板が本当のことを書くまでに、34年かかりました。

核爆発で、湖を作る
1963年、部分的核実験禁止条約が結ばれ、大気圏内の実験ができなくなります。実験は地下に移りました。総数456回のうち、340回が地下です。
その地下実験のなかに、少し毛色の違うものがあります。
1965年1月15日、チャガン実験。威力140キロトンの装置を、干上がったチャガン川の川床の地下178メートルに置いて爆発させました。目的は「爆発で穴を掘る」ことです。できたクレーターは直径400メートル、深さ100メートル。まわりに20メートルから38メートルの土手ができ、これが川をせき止めて貯水池になりました。
いまその湖は「アトミック湖」、地元の言葉では「アトム・コル」と呼ばれています。核爆発で作られた湖です。
これは「平和的核爆発」と呼ばれた計画の第一弾でした。核で運河を掘り、港を作り、貯水池を作る。ばかげた発想に聞こえるかもしれませんが、同じ時期にアメリカも「プラウシェア計画」という名前でまったく同じことを考えています。冷戦は、こういう発想を両側に同時に生みました。
湖の水は、いまも飲料水の基準のおよそ100倍の放射性物質を含みます。ただし岸から100メートルから150メートル離れると、線量は自然の水準に戻ります。
そして地元には、「安全だと示すために責任者が自らこの湖で泳いでみせた」という話が伝わっています。ソ連の中型機械製作省の大臣エフィム・スラフスキーだった、と語られることが多い。ただしこれは諸説の側で、日付や状況を裏づける一次資料ははっきりしません。

詩人が、原稿を読むのをやめた
1989年2月28日。カザフの詩人オルジャス・スレイメノフが、テレビの放送に出演しました。予定は自作の詩の朗読です。
彼は原稿を読みませんでした。かわりに、実験場のことを話し始めます。その数日前、地下実験で放射性のガスが地表に漏れ出していました。
翌日、呼びかけに応じて集まった人は数千人。運動には「ネバダ・セミパラチンスク」という名前がつきます。ネバダはアメリカの核実験場です。自分の国の実験場に反対するだけでなく、相手側の実験場にも同時に反対する。冷戦のまっただ中で、この名前をつけたこと自体が一つの主張でした。
ソ連で初めての、そして最大の反核市民運動になりました。集会には数万人が集まり、カラガンダの炭鉱労働者はストライキを予告しています。
そして数字が動きます。1989年に予定されていた実験の多くが中止され、この年の10月19日に行われたものが、この草原での最後の核実験になりました。

同じ日付で、終わった
1991年8月29日、カザフスタン大統領ヌルスルタン・ナザルバエフが、実験場の閉鎖を命じる大統領令に署名しました。1949年8月29日から、ちょうど42年後の同じ日付です。
この日付が1949年に合わせて選ばれたのかどうか、公式に説明した文書は見当たりません。ただ、42年きっかり同じ日というのは偶然にしてはできすぎている、というのが多くの人の見方です。ここは諸説として置いておきます。
40年間の合計は456回。大気圏内が116回、地下が340回。この密度で核爆発が行われた場所は、地球上でここだけです。
ソ連が消えるのは、この4か月後の12月でした。カザフスタンは世界第4位の規模の核戦力を国内に抱えたまま独立し、そして、それを手放しました。
2009年12月2日、国連総会は決議64/35を全会一致で採択し、8月29日を「核実験に反対する国際デー」に定めます。提案したのはカザフスタンです。理由として挙げられたのは、1991年8月29日の実験場閉鎖を記念すること。最初の実施は2010年でした。
つまりこの国際デーの日付は、「始まった日」ではなく「終わった日」として選ばれています。結果として、両方を指すことになりました。
まとめ
草原には、まだ残っています。
デゲレン山にはかつて実験に使われたトンネルが多数あり、そこに核物質が残されたままでした。アメリカ、ロシア、カザフスタンの3か国がこれを封じ込める作業を続け、完了したのは2012年、公表は2013年です。土地の一部にはいまも立ち入り制限があり、一部は牧草地として使われています。
被曝の影響は、いまも世代を越えて研究が続いています。
この話から持ち帰るものを、三つ挙げます。
一つ。「無人だ」という報告から始まったこと。実際にはそこに人が住んでいて、その人たちは選択肢を与えられませんでした。国家の大きな計画は、しばしば「そこに誰もいない」という前提から始まります。その前提を誰が確認したのかは、後から必ず問われます。
二つ。データは取られていたのに、本人には知らされなかったこと。反ブルセラ症第4診療所で集められた記録は、医学的には貴重なものでした。しかし調べられている本人が理由を知らないなら、それは研究ではなく利用です。インフォームド・コンセントという原則が国際的に固まっていく背景には、こういう事例の積み重ねがあります。
三つ。終わらせたのが誰だったか。この実験場を止めたのは、条約でも軍縮交渉でも、外国からの圧力でもありませんでした。テレビで原稿を読むのをやめた詩人と、それに続いた数万人です。
今日は8月29日。始まった日で、終わった日です。
出典・参考情報
- [A] 国連「International Day against Nuclear Tests」および国連総会決議64/35(2009年12月2日採択)
- [A] IAEA「Semipalatinsk Revisited: Old Nuclear Test Site Sets New Course」
- [A] カザフスタン国立核センター(NNC)「ATOMIC LAKE — from the history of nuclear tests at Semipalatinsk Test Site」
- [B] Bulletin of the Atomic Scientists「The lasting toll of Semipalatinsk's nuclear testing」(2009年9月)
- [B] NTI(Nuclear Threat Initiative)「Semipalatinsk Test Site」施設プロファイル
- [B] RFE/RL「Thirty Years Ago, Kazakhstan Closed Soviet-Era Nuclear Test Site」(2021年8月29日)
- [B] Global Nonviolent Action Database(スワースモア大学)「Kazakhs stop nuclear testing (Nevada-Semipalatinsk Antinuclear Campaign), 1989-1991」
- [B] Euronews「Meet Olzhas Suleimenov, the voice behind the end of nuclear testing」(2026年4月15日)
- [B] 米国立衛生研究所 PMC「Studies of Health Effects from Nuclear Testing near the Semipalatinsk Nuclear Test Site, Kazakhstan」
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