2025年7月、アメリカの国立標準技術研究所が、世界一正確な時計を作ったと発表した。どれくらい正確かというと、宇宙が生まれてから今日まで一度も止めずに動かしても、ずれは0.2秒ほどにしかならない。二十年かけて磨き上げた、小数点以下十九桁目まで正しい時計である。ところが今年の9月、その桁のさらに先に、人間の技術ではどうにもならない「にじみ」があるかもしれない、という計算が話題になった。時計の精度の問題ではない。時間そのものが、ほんのわずかにぼやけているという話だ。今日はその、測れないほど小さな時間のズレの話をする。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

宇宙の年齢ぶん動かしても、ずれは0.2秒
まず、いまの時計がどこまで来ているかを見ておきたい。
2025年7月、アメリカの国立標準技術研究所、通称NISTが発表したのは、アルミニウムのイオンを一つだけ閉じ込めて振動を数える時計だった。アルミニウムのイオンは性質がとても素直で、まわりの温度や磁場に揺さぶられにくい。そのかわり、レーザーで冷やしたり状態を読み出したりするのが難しい。そこで隣にマグネシウムのイオンを置いて、そちらを操作しながら間接的にアルミニウムの様子を読む、という手の込んだ構えを取っている。
この時計の系統的な不確かさは、5.5かける10のマイナス19乗。つまり一秒あたり、小数点以下十九桁目でようやく怪しくなる。従来の記録より四割ほど正確で、安定性も二倍半になった。以前は三週間まわし続けなければ出せなかった精度が、一日半で出るようになったという。
数字が細かすぎるので、時間の側に直しておく。宇宙が生まれてからいままでを約138億年として、その全部を通してこの時計を動かしっぱなしにしても、ずれは0.2秒ほどにしかならない。人類の「正確さ」は、そこまで来ている。
ここで普通は、次はもっと正確な時計を作ろう、という話になる。ところが物理の側から、そもそもどこまで行けるのか、という問いが投げ返された。

そもそも、なぜ「見ると決まる」のか
話の出発点は、量子力学のいちばん居心地の悪いところにある。
量子力学の教科書では、粒子は観測されるまで複数の状態を同時に持っている。右にも左にもいるし、上向きにも下向きにも回っている。そして誰かが観測した瞬間に、どれか一つに決まる。これを波動関数の収縮と呼ぶ。
問題は、この「観測した瞬間に決まる」というくだりに、まともな仕組みの説明がないことだ。計算の手順としては書いてあるが、なぜそうなるのかは書いていない。誰が観測者なのかもはっきりしない。人間なのか、装置なのか、猫でもいいのか。有名なシュレーディンガーの猫は、この曖昧さをからかうための思考実験である。
そこで1986年、イタリアのジャンカルロ・ギラルディたち三人が、別の考え方を出した。観測者などいらない。波動関数は、誰も見ていなくても、勝手に、ときどき収縮している、というものだ。ただしその頻度は途方もなく低く、提案されている標準的な値では、粒子一つあたり数億年に一回ほど。だから電子や原子は、いつまでもぼやけたままでいられる。
ところが物体が大きくなると話が変わる。原子が十の二十三乗個も集まっていれば、どれか一つが収縮するまで一千万分の一秒とかからない。一つ潰れれば全体が引きずられて潰れる。だから机も猫も、観測とは無関係に、はっきりした場所を持ってしまう。
この路線の理論は、のちに連続自発的局在、略してCSLという形に整えられ、いまも生き残っている。

潰しているのは、重力ではないのか
もう一つの答えを出したのが、重力の側から考えた人たちだった。
ハンガリーのラヨシュ・ディオシが1980年代の終わりに、イギリスのロジャー・ペンローズが1996年に、それぞれ独立に近い形で同じ方向へ進んだ。ものが二つの場所に同時にあるということは、そのものが作る重力の場も二つあるということになる。時空が二重にゆがんだ状態は、それ自体が不安定で、長くは保てない。だから重い物体ほど早く一つの状態に落ちる。潰しているのは観測者ではなく、重力そのものだ、という筋書きである。
この考え方の魅力は、余計な数字を足さずに済む点にあった。ギラルディたちの模型には、収縮の頻度と細かさという、実験から決めるしかない定数が二つ入っている。ところが重力版では、原理的にはニュートン定数だけで話が閉じる。
ペンローズは2020年に、ブラックホールの研究でノーベル物理学賞を受け取っている。ただし受賞理由はこちらの収縮の話ではない。重力による収縮のほうは、長らく「美しいが確かめようがない」区分に置かれたままだった。
ちなみにペンローズは、この重力による収縮が脳の中でも起きていて、それが意識の正体だという説も唱えている。こちらは物理学者からも神経科学者からも評判が悪い。

潰れるたびに、時間の流れが揺れる
そして今年、この二つの流派をまとめて扱った計算が出た。
ローマのエンリコ・フェルミ研究センターの大学院生ニコラ・ボルトロッティを筆頭に、カタリーナ・クルチェアヌ、ラヨシュ・ディオシ、シモーネ・マンティ、クリスティアン・ピシッキアの五人による論文で、ディオシ本人が名を連ねている。
彼らが持ち込んだ発想はこうだ。物体の質量の分布が絶えず小さく揺さぶられているなら、その物体が作る重力の場も、絶えず小さく揺れている。重力の場が揺れれば、その場所の時間の進み方も揺れる。重力が強い場所ほど時間が遅く進むというのは、一般相対性理論のよく知られた帰結だ。ならば、勝手に起きている収縮は、時間の流れそのものに小さなさざなみを立てているはずである。
論文の要点は二つある。一つは、この時間の揺らぎが、重力を土台にしたディオシ・ペンローズ模型だけでなく、重力とは無関係に作られたはずのCSLにも現れる、と示したこと。もう一つは、その揺らぎがどこまで大きくなりうるか、上限を計算したことだ。
結論を先に書くと、時計はまったく困らない。研究チームの一人は「現代の計時技術はまったく影響を受けない」と述べ、別の一人は「いま測れるどんなものよりも、桁が何十も下」だと言う。冒頭のアルミニウム時計が十九桁目で止まっているのに対して、この揺らぎはさらにずっと下にいる。
つまり、実害はゼロだ。それでもこの計算に意味があるのは、量子力学と一般相対性理論という、百年ものあいだ折り合いのつかない二つの理論のあいだに、細いながら計算のできる橋が架かったからである。

地下千四百メートルで、同じ人たちが同じ理論を追い詰めていた
面白いのは、この論文に名前を並べている人たちが、以前は同じ理論を殺しにかかっていたことだ。
2020年、ピシッキア、クルチェアヌ、ディオシを含む研究チームが、ネイチャー・フィジックス誌に一本の論文を出している。舞台はイタリア中部、グラン・サッソ山の下にある地下実験室。山を貫く高速道路のトンネルの脇から入る、千四百メートルの岩に守られた施設だ。宇宙線が地上の百万分の一以下しか届かないので、ごく弱い放射線を数えるのに向いている。
狙いはこうだ。収縮が本当に起きているなら、原子核の中の陽子はそのたびにわずかに揺さぶられる。荷電粒子が揺さぶられれば電磁波を出す。つまり、何もしていない物質が、ひとりでにごく弱いエックス線を出しているはずだ。研究チームはゲルマニウムの検出器を地下に据えて、その「あるはずのない光」を探した。
結果、光は見つからなかった。そしてこの結果から、ディオシ・ペンローズ模型のいちばん素直な形、つまり余計な調整なしの版は、成り立たないと結論された。以前の実験より千倍ほど厳しい制限がついたことになる。同じ測定は、ペンローズの意識の理論にも横から効いた。
理論を追い詰めた当人たちが、その数年後に同じ理論を使って時間の限界を計算している。潰しきってはいない、まだ生きている余地があるから計算する価値がある、ということでもある。

「時間にバグが見つかった」は、どこがずれているか
この話は英語圏で「物理学者が時間そのものに小さなバグを見つけた」といった見出しで広がった。読み物としては面白いが、いくつか離れている。
まず、何かが観測されたわけではない。この論文は測定の報告ではなく、既存の理論を仮に正しいとしたらどうなるか、という計算である。時間のにじみが実在するかどうかは、いまのところ誰も知らない。土台にしている収縮模型そのものが、まだ確かめられていない仮説だからだ。
次に、時計が壊れたわけでもない。むしろ論文の結論は逆で、現在のどの時計にも影響しないことを明示的に示している。この点は、著者たちが取材でわざわざ念を押している。
そして、論文自体は今年に出たものではない。物理学専門誌フィジカル・レビュー・リサーチに載ったのは2025年11月で、今年の9月に世界へ広まったのは、研究資金を出した基金が改めて解説を出したからだ。研究の内容は変わっていない。
それでも取り上げる価値はある。実用上まったく意味のない桁に、真面目に上限を引く人たちがいる。しかもその上限は、量子力学と重力という水と油を無理なくつないだところから出てきた。役に立たないと分かっている計算にこれだけの手数をかけられること自体が、一つの見どころだ。
まとめ
いま人類が持っている最高の時計は、宇宙の年齢ぶん動かしても0.2秒しかずれない。そこまで来たところで、時間そのものにわずかなにじみがあるかもしれない、という計算が出た。にじみの大きさは、その時計の限界よりもはるかに下で、実生活にも研究にも一切の影響がない。
それでもこの計算には、量子力学と一般相対性理論を同じ式の中に置く、という値打ちがある。そして計算した本人たちは、数年前に地下千四百メートルでこの理論の一部を否定した人たちでもある。
世界一の時計の、そのはるか先の桁に、たぶん誰も一生届かないズレがある。知っていても何の得にもならない。だからこそ、覚えて帰ってほしい。
出典・参考情報
- [A] Physical Review Research「Fundamental limits on clock precision from spacetime uncertainty in quantum collapse models」(2025年11月13日)
- [A] Nature Physics「Underground test of gravity-related wave function collapse」(2020年9月)
- [A] アメリカ国立標準技術研究所(NIST)「NIST Ion Clock Sets New Record for Most Accurate Clock in the World」(2025年7月)
- [B] ScienceDaily「Physicists just found a tiny glitch in time itself」(2026年9月11日)
- [B] Foundational Questions Institute(FQxI)による研究解説リリース(2026年9月)
- [B] The Debrief「Mystery of Time Deepens as "Strange Physics" Study Reveals New Links Between Gravity and the Quantum World」(2026年9月)
- [B] Physics World「Optical lattice clock shatters precision record」
- [B] Physics of Life Reviews 掲載の議論(ペンローズ・ハメロフの意識理論に対する地下測定からの制約、2022年)
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