古代文明・遺跡の謎

ヴォイニッチ手稿――600年、誰にも読めない本は暗号か、言語か、壮大なイタズラか

古代文明・遺跡の謎公開 2026年6月27日更新 2026年10月8日ザツレコ編集部
ヴォイニッチ手稿――600年、誰にも読めない本は暗号か、言語か、壮大なイタズラか

イェール大学に「MS 408」として眠る、1404〜1438年の本物の古文書。実在しない植物、星座、水浴びする女たちの絵と、誰にも読めない文字。少なくとも5人で書かれ、余白には昔の解読の跡まで残る。暗号説・未知の言語説・イタズラ説と最新研究を、事実と諸説に分けて解説。

「世界一ふしぎな本」とも「世界一読めない本」とも呼ばれる、一冊の古い書物があります。全部で二百ページあまり。びっしりと文字が書き込まれ、見たこともない植物や、星の図、そして水浴びする女性たちの絵がそえられている。ところが、その文字を、いまだ世界中の誰一人として読むことができていません。暗号の専門家も、言語学者も、戦時中の軍の暗号解読者も、そして最新のAIでさえ、お手上げ。600年ものあいだ、固く口を閉ざしたままの本。今回はそんな「ヴォイニッチ手稿(Voynich Manuscript)」をめぐる謎を、確かな事実と、いくつもの仮説を、ていねいに分けながらたどります。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

世界一ふしぎな本、MS 408

まず、確かな事実から始めましょう。この本は今、アメリカのイェール大学にあるバイネキ稀覯本図書館(Beinecke Rare Book & Manuscript Library)に、「MS 408」という整理番号で保管されています。大きさは縦23センチ、横16センチほど。文庫本を少し大きくしたくらいの、意外と手に取りやすいサイズです。ページは子牛の皮から作られた羊皮紙(ヴェラム)。今残っているのは二百三十ページあまりで、もともとはもっと厚かったらしく、何枚かは抜け落ちて失われています。

本物の中世の本だという根拠は、しっかりあります。2009年、アメリカのアリゾナ大学が羊皮紙の一部を放射性炭素年代測定――炭素の量から年代を割り出す科学的な方法――にかけたところ、作られたのは1404年から1438年のあいだ、という結果が出ました。今からおよそ600年前、日本でいえば室町時代のはじめごろにあたります。インクも、当時のヨーロッパで広く使われた鉄胆(てったん)インク。近代の誰かが面白半分にでっち上げたニセモノではなく、中世にちゃんと作られた、正真正銘の古文書なのです。

問題は、たった一点に尽きます。ここに書かれている「文字」も「絵」も、どの国の、どの時代のものとも一致しない。本物の中世の紙とインクでできているのに、中身だけがこの世界のどこにも属していない。だからこそ、この一冊は「世界一ふしぎな本」と呼ばれ続けているわけです。

皇帝の宮廷から、忘れられた古城へ

この本が、どんな人の手を渡り歩いてきたのか。ここも、はっきり記録が残っている部分と、ぷっつり消える部分があって、それがまた不気味なんです。

いちばん古い確かな手がかりは、1665年ごろ。プラハの医師ヨハネス・マルクス・マルチ(Johannes Marcus Marci)が、ローマにいた博識のイエズス会士アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)に宛てて書いた、一通の手紙です。そこにはこう記されていました。この本はかつて、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が600ドゥカート――金貨600枚という大金で買い上げたものだ、と。しかも、書いたのは13世紀イギリスの学者ロジャー・ベーコンではないか、という言い伝えまで添えられていました。ただし、このベーコン説はあくまで当時のうわさで、年代測定の結果とも合わず、今では否定されています。

本は宮廷の周辺の学者や薬剤師の手を経て、キルヒャーのもとへ送られます。ところが、その後およそ250年間、この本の足取りはぷっつりと途絶えてしまうのです。再び表舞台に現れるのは1912年のこと。ポーランド出身の古書商ウィルフリッド・ヴォイニッチ(Wilfrid Voynich)が、ローマ近郊にあるイエズス会の古い別荘、ヴィラ・モンドラゴーネで古文書の山をあさっていたときに、これを手に入れました。この本に「ヴォイニッチ手稿」という名前がついたのは、このときの持ち主の名前から、というわけです。その後、1969年に古書商ハンス・P・クラウスの手からイェール大学へ寄贈され、今日に至ります。

植物、星座、水浴びする女たち

では、中身をのぞいてみましょう。文字はまったく読めませんが、絵のほうはカラフルで、ページをめくるだけでも妙な味わいがあります。研究者たちは、描かれた絵の内容から、この本をいくつかのパートに分けています。

いちばん多いのが「植物」のパート。ページいっぱいに、葉と根と花を持つ植物が描かれています。ところが厄介なことに、その大半が、実在するどの植物とも一致しないのです。ありそうでいて、どこかが少しずつ違っている、想像上の草花。次が「天文・占星術」のパート。太陽や月、星、そしておなじみの十二星座らしき円形の図がならびます。さらに有名なのが「生物・水浴び」のパート。緑色の液体で満たされた奇妙な管やプールのなかで、たくさんの小さな裸の女性たちが水浴びをしている――そんな、なんともシュールな絵が続きます。

ほかにも、薬草と小さな容器がならぶ「薬学」のパート、短い段落が星印つきで続いていく「レシピ」のようなパートがあります。植物図鑑なのか、医学書なのか、占いの書なのか。絵だけ見るとそれっぽいのに、肝心の文字が読めないせいで、結局これがなんの本なのか、誰にも分からない。目で見える情報はこんなにあるのに、意味にはまったくたどり着けない。そのもどかしさが、この本の大きな魅力でもあるんです。

「ヴォイニッチ語」は、本物の言語のように振る舞う

さて、この本最大の謎、文字そのものに迫っていきましょう。研究者たちは、この未知の文字体系を「ヴォイニッチ語(Voynichese)」と呼んでいます。

全体でおよそ17万文字。よく使われる記号は二、三十種類ほどで、それらが組み合わさって単語をつくり、ちゃんと行や段落の形にならんでいます。迷ったり、書き間違えて消したりした跡が、ほとんど見当たらない。まるで、すでにできあがっている文章を、すらすらと書き写しているかのようです。しかも2020年、中世写本の研究者リサ・フェイギン・デイヴィス(Lisa Fagin Davis)が筆跡を一文字ずつ比べたところ、書き手は一人ではなく、少なくとも5人いたらしいことが分かりました。複数の人間が、同じ読めない文字を、同じルールで書き分けていたことになります。

そして、ここがいちばんゾクッとするところ。2013年などに行われた計算言語学の分析によれば、このヴォイニッチ語は「ジップの法則」という、人間の自然言語に広く見られる数学的なパターンに従っているというのです。簡単に言えば、「よく使う単語ほど、登場する回数がケタ違いに多くなる」という、本物の言葉そっくりの“クセ”を持っている。デタラメに記号を並べただけでは、なかなかこうはなりません。意味は一文字も読めないのに、振る舞いだけは、まるで生きた言語そのもの。この矛盾こそが、研究者たちを悩ませ続けてきた最大の難問なのです。

解読に挑み、散っていった者たち

これだけの謎ですから、当然、歴史上の名だたる頭脳が、次々と解読に挑んできました。そして、その多くが、苦い失敗に終わっています。

有名なのが、1921年、アメリカ・ペンシルベニア大学のウィリアム・ニューボールド(William Newbold)。彼は「目に見える文字はダミーで、本当の意味は、一画一画を拡大鏡でのぞいたときに現れる、ごく微細な線に隠されている」と主張し、世間を沸かせました。しかし彼の死後、その読みは「インクのひび割れを読み込んだ思い込みにすぎない」と否定されます。第二次大戦中には、日本の外交暗号を破ったアメリカの暗号解読者ウィリアム・フリードマン(William Friedman)も本気で挑みましたが、最後まで歯が立ちませんでした。

最近では、2019年にイギリスの研究者ジェラルド・チェシャー(Gerard Cheshire)が「これは原ロマンス語という失われた言語で書かれている」と発表し、大きく報じられました。ところが言語学者たちから「方法も前提も、根本から間違っている」と厳しく批判され、彼の所属するブリストル大学までもが、自分たちの出した発表記事を取り下げる騒ぎになります。ほかにも、ヘブライ語だ、アステカの言葉ナワトル語だ、と数々の解読成功が報じられてきましたが、第三者がきちんと検証して認めたものは、今のところ、ただの一つもありません。

挑戦の痕跡は、本そのものにも残っています。2024年、デイヴィスは、別のチームが撮影していた多波長の画像を調べ直し、最初のページの余白に、消された一列のラテン文字が残っているのを報告しました。中世か近世の誰かが、ヴォイニッチ語の文字にアルファベットを当てはめようとした跡ではないかと見られています。つまり、この本を読めずに頭を抱えた人は、600年前から何人もいたのかもしれません。

暗号か、言語か、壮大なイタズラか

では結局、この本の正体は何なのか。ここははっきりさせておきますが、まだ誰にも分かっていません。そのうえで、大きく三つの説を紹介します。

ひとつめは「暗号説」。ラテン語やイタリア語などのふつうの言葉を、何らかのルールで記号に置きかえた暗号文ではないか、という見方です。2025年11月には、科学ジャーナリストのマイケル・グレシュコ(Michael Greshko)が、学術誌『Cryptologia』に「ナイッベ(Naibbe)暗号」という方式を発表しました。サイコロで文章を1文字か2文字ずつに区切り、トランプを引いて六つの対応表から一つを選び、記号に置きかえていく。15世紀に手に入る道具だけで作れるこの方式で、文字の出現頻度や単語の長さといった、ヴォイニッチ語の統計的なクセをかなりよく再現できたといいます。ただし、本人が「写本が実際にこの方法で作られた可能性は、ほぼない」とことわっています。示したのは、15世紀の技術でもこういう文章は作れる、という可能性だけです。

ふたつめは「未知の言語説」。私たちがまだ知らない、失われた言語や方言を、独自の文字で書き留めたものだ、という説。ジップの法則に従うという点は、この説を後押しします。みっつめが「イタズラ・無意味説」。中身は実はデタラメで、人をだますために“それっぽく”作られた、空っぽの本にすぎない、という、いちばん身もフタもない見方です。

このイタズラ説にも、弱点があります。2000年代には、穴のあいた格子状の道具を使えば、意味のない言語っぽい文字列を量産できる、という指摘も出ました。けれど、600年前に、二百ページ以上にもわたって、ジップの法則を満たすほど精巧なデタラメを、複数の書き手が一度もボロを出さずに書き続けられるものか――という反論も、根強く残っています。

研究は、今も止まっていません。2026年12月9日には、マルタ大学の呼びかけで、ヴォイニッチ手稿だけを扱う国際会議がオンラインで開かれる予定です。おもしろいのは、その募集要項に「解読しました、という論文は受け付けない」と明記されていること。いま求められているのは、一発逆転の答えではなく、文字の統計や画像の分析を、一つずつ積み上げていく地道な研究なのです。

まとめ

600年前に作られ、皇帝の手に渡ったとされ、一度は歴史から消え、古い別荘の片隅でよみがえった一冊の本。中には、ありもしない植物と、水浴びする女たちと、本物の言語のように振る舞う、誰にも読めない文字。少なくとも5人の手で書かれ、余白には昔の誰かが読もうとした跡まで残っている。暗号なのか、未知の言語なのか、それとも壮大なイタズラなのか――確かなことは、いまだ何ひとつ証明されていません。世界中の研究者とAIを束にしても解けない本が、今この瞬間も、イェール大学の書庫で静かに眠っている。そう思うと、自分の本棚の奥の、まだ読まずにいる一冊が、少しだけ気になってきませんか。

2026年10月8日改定:筆跡分析で書き手が少なくとも5人とされた研究(2020年)、余白に残る消されたラテン文字の報告(2024年)、ナイッベ暗号の掲載誌と仕組み、2026年12月の国際会議の情報を追加。年号を算用数字に統一し、冒頭とまとめを改めた。ウィルフリッド・ヴォイニッチの入手、ブリストル大学の対応、フリードマンの経歴の書き方を正確にした。

出典・参考情報

  • [A] Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Yale University「Voynich Manuscript(MS 408)」書誌・デジタルアーカイブ
  • [A] University of Arizona 放射性炭素年代測定(羊皮紙=1404–1438年, 2009)
  • [A] Michael Greshko「The Naibbe cipher」Cryptologia(2025年11月)
  • [A] Lisa Fagin Davis「How Many Glyphs and How Many Scribes? Digital Paleography and the Voynich Manuscript」Manuscript Studies(2020)
  • [A] University of Malta「2026 International Conference on the Voynich Manuscript」募集要項(2026年3月)
  • [B] Live Science「Mysterious Voynich manuscript may be a cipher, a new study suggests」(2026年1月3日)
  • [B] Archaeology Magazine「A new study suggests the mysterious Voynich Manuscript may be a medieval cipher」(2026年1月)
  • [B] Encyclopaedia Britannica「Voynich manuscript」
  • [B] Claire L. Bowern & Luke Lindemann「The Linguistics of the Voynich Manuscript」(言語統計・ジップの法則)
  • [B] Wikipedia「Voynich manuscript」(英語版)/年表・諸説の整理
  • [C] Gerard Cheshire「proto-Romance(原ロマンス語)説」(2019)=学界により否定。反証込みで参照

信頼度 A=一次/公的(所蔵機関・年代測定・論文)、B=定評メディア・専門研究、C=個人発信・未検証。物理・来歴・年代といった事実と、解読をめぐる諸説・反証を区別して記載しています。ベーコン説・原ロマンス語説などの解読成功はいずれも証明されていません。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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