奇妙な歴史・黒歴史

死んだ教皇を、墓から掘り起こして裁判に──897年「死体裁判」の戦慄

奇妙な歴史・黒歴史公開 2026年6月17日更新 2026年10月25日ザツレコ編集部
死んだ教皇を、墓から掘り起こして裁判に──897年「死体裁判」の戦慄

897年、ローマ教皇ステファヌス6世が、前任教皇フォルモススの遺体を墓から掘り起こし、玉座に座らせて裁判にかけた「死体裁判(カダヴァー・シノド)」。有罪・全行為無効・指の切断・テヴェレ川投棄という辱めの末、裁いたステファヌス6世自身も民衆に投獄・絞殺。権力闘争に翻弄された教皇位の混乱を史実で解説。

歴史には、まれに「本当にあったのか」と疑いたくなるような、奇妙な事件が記録されています。今日お話しするのは、その極めつけ。なんと、すでに亡くなって埋葬されていた人物が、墓から掘り起こされ、被告人として裁判にかけられた、という出来事です。しかも裁かれたのは、ただの人ではありません。カトリック教会のトップ、ローマ教皇でした。897年、ローマで実際に起きたこの一件は、後に「死体裁判(カダヴァー・シノド)」、あるいはラテン語で「おぞましき会議(シノドゥス・ホレンダ)」と呼ばれることになります。今日はこの世にも奇妙な歴史を、確定している事実をもとに、ひもといていきます。

死んだ教皇が、被告人席に

物語の中心にいるのは、二人の教皇です。一人は、亡くなった前任の教皇フォルモスス。もう一人が、その後継者として教皇となったステファヌス6世です。897年1月、ステファヌス6世は、信じがたい命令を下します。「フォルモススの遺体を、墓から掘り起こせ」と。

埋葬されてから、すでに9か月ほどが経っていた遺体は、ローマのラテラノ大聖堂へと運ばれました。そして、教皇の祭服を着せられ、玉座に座らされたのです。そう、すでに息絶えた前任者を、被告人として裁判の場に引きずり出す、という前代未聞の舞台が整えられました。物言わぬ遺体の代わりに、一人の助祭が物陰に控え、被告人の“弁明”を代弁した、と伝えられています。想像するだけで、なんとも異様な光景です。

「死体裁判」──おぞましき会議

玉座の遺体に向かって、ステファヌス6世自身が、激しく罪を問いただしたとされます。突きつけられた罪状は、偽証の罪、不当に教皇の座を望んだこと、そして教会の規則に違反して教皇に選ばれたこと、などでした。

当然ながら、遺体が反論できるはずもありません。裁判の結末は、初めから決まっていたようなものでした。フォルモススは有罪とされ、さらにこの会議は、彼が教皇として在任中におこなったすべての行為を「無効」と宣言します。つまり、彼が任命した聖職者や、彼が下した決定が、すべて“なかったこと”にされてしまったのです。これは、当時の教会と政治を、根底から揺るがす重大な決定でした。

有罪、そしてテヴェレ川へ

有罪となったフォルモススの遺体には、さらなる屈辱が加えられます。ステファヌス6世は、遺体から、祝福を与えるときに使う右手の三本の指を切り落とすよう命じました。教皇としての権威を、象徴的に奪い去ったのです。

そして祭服を剥ぎ取られ、粗末な布をまとわされた遺体は、最終的にローマの中心を流れるテヴェレ川へと投げ込まれました。当時、この川に遺体を捨てるのは、極悪人に対する仕打ちとされていました。前任の教皇に対する、これ以上ない辱めです。ただし、川に沈められた遺体は、長くはそこにありませんでした。後に、ある修道士、あるいは漁師の手によって、ひそかに引き上げられた、と伝えられています。

裁いた者の、悲惨な末路

では、この異様な裁判を主導したステファヌス6世は、その後どうなったのでしょうか。結論から言えば、彼自身に、すぐさま報いが訪れます。この「死体裁判」は、ローマの人々から、まったく支持されませんでした。むしろ、あまりに残酷で冒涜的な見世物だと受け止められ、それまで彼を支えていた人々さえ、次々と背を向けていったのです。

ついに民衆は蜂起し、ステファヌス6世を捕らえて、牢へと投げ込みました。そして897年8月、彼は獄中で絞殺され、命を落とします。前任者の遺体を裁いた、わずか数か月後のことでした。さらにその後、混乱の中で教皇に就いた人物たちによって、フォルモススの名誉は回復され、死体裁判の決定そのものが、後に正式に取り消されることになります。歴史は、行きすぎた裁きを、結局は否定したのです。

まとめ──なぜ、こんなことが起きたのか

「死体裁判」は、単なる猟奇的な逸話ではありません。その背景には、当時のローマ教皇の座が、有力な貴族や政治勢力の争いに激しく翻弄され、めまぐるしく交代を繰り返していた、という混乱の時代がありました。教皇の権威そのものが、政治の道具として奪い合われていたのです。フォルモススへの異常な仕打ちも、その権力闘争の延長線上にありました。

一人の人間の遺体をここまで辱めても、結局、裁いた側もまた、悲惨な最期を迎えました。権力に取り憑かれた者の暴走が、どれほど醜く、そしてむなしい結末を生むか──。1100年以上前のこの奇妙な事件は、それを今に伝える、忘れがたい歴史の一ページです。ザツレコ的に言えば、知れば知るほど「本当にあったのか」と背筋が寒くなる、最高にダークな雑学なのです。

出典・参考情報

  • [A] Wikipedia「Cadaver Synod」(一次資料・年代記への参照集)
  • [B] Atlas Obscura「The Cadaver Synod: When a Pope's Corpse Was Put on Trial」
  • [B] All That's Interesting「The Macabre Story Of The Cadaver Synod」

信頼度 A=百科事典(一次資料参照)/B=歴史メディア。死体裁判(897年1月・ラテラノ大聖堂)、教皇フォルモススの遺体裁判・有罪・行為無効・指の切断・テヴェレ川投棄、ステファヌス6世の投獄と絞殺(897年8月)は史料に基づく確定的記述。残虐描写は最小限に留めた。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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