20世紀の初め、暗闇でぼんやりと緑色に光る、不思議な絵の具があった。ラジウムを混ぜたその塗料は、時計の文字盤を光らせる魔法の材料として、大量に使われた。細かな数字を筆で描く仕事に就いたのは、10代から20代の若い女性たちだった。彼女たちは職場で教えられたとおり、筆先を唇でととのえながら、来る日も来る日も文字盤を塗り続けた。だが、その「光る絵の具」は、少しずつ彼女たちの体を内側から蝕んでいった。今日は「ラジウム・ガールズ(Radium Girls)」の物語。怪談ではなく、実際に多くの命が失われた出来事だ。面白がるためではなく、何が起きたのかを知り、そこから学ぶために、歴史を振り返っていこう。

暗闇に光る「奇跡の絵の具」
ラジウムは1898年、マリー・キュリーとピエール・キュリーの夫妻が見つけた元素だ。暗闇で自ら光を放つその性質は、当時の人々にとって奇跡のように見えた。健康にすら良いと信じられ、ラジウム入りの飲み水や化粧品まで売られていたほどだ。この光るラジウムを塗料に混ぜれば、電気のいらない、暗闇で光る時計の文字盤が作れる。1913年ごろ、ザビン・フォン・ソホツキーという医師がこの夜光塗料を考案した。「アンダーク(Undark)」という名で売られたその塗料は、第一次世界大戦で兵士の腕時計や計器に使われ、一気に広まった。1920年には、アメリカの科学雑誌が「夜光の時計はすでに400万個を超えた」と伝えている。アメリカとカナダでは、およそ4000人がこの文字盤づくりに雇われたとされる。その多くが若い女性で、中には15歳ほどの少女もいた。
ニュージャージー州オレンジにあった合衆国ラジウム社(U.S. Radium Corporation)の工場では、最盛期に300人ほどの女性が働き、一人で1日に250枚前後の文字盤を塗ったという。工場の仕事としては給料がよく、手先の器用さを生かせる仕事でもあった。彼女たちは、この仕事に誇りを持って通っていた。

「唇で筆を尖らせて」
問題は、その塗り方にあった。時計の小さな数字をきれいに描くには、筆の先を細くとがらせておかなければならない。そこで職場で教えられたのが、「リップ・ポインティング」――筆先を唇にくわえてとがらせ、塗料につけ、塗る、という手順だった。彼女たちはこの動作を、1日に何百回も繰り返した。塗料は1〜2グラムずつ小さな器に分けて配られ、筆はそのたびに口へ運ばれた。口に入るたびに、ごくわずかなラジウム入りの塗料を、口から体に取り込んでいたことになる。
だが、ラジウムは体に良いとさえ言われていた時代だ。危ないと考える人は、ほとんどいなかった。仕事帰りの服や髪は塗料の粉でうっすらと光り、町では彼女たちを「ゴースト・ガールズ」と呼ぶ人もいた。面白半分に爪や歯に塗料を塗り、暗闇で光らせて遊ぶことさえあったという。光る絵の具は、若い女性たちにとって、少し不思議で、楽しい仕事道具でしかなかったのである。

少女たちの体を蝕んだもの
最初の犠牲者として知られるのが、オレンジの工場で働いたモリー・マッジア(Mollie Maggia)だ。歯が抜け、あごに痛みが広がり、1922年に24歳で亡くなった。治療にあたった歯科医が触れただけで、あごの骨が外れてしまったと伝えられる。それでも当時の死亡診断には梅毒と書かれ、本人の名誉まで傷つけられた。だが、本当の原因は別のところにあった。
ラジウムは、化学的な性質がカルシウムによく似ている。そのため体に入ると骨に取り込まれ、そこに長くとどまって放射線を出し続ける。1920年代、同じ職場の女性たちに、次々と同じ症状が現れた。歯が抜け、あごの骨が壊死して崩れていく。のちに「ラジウム・ジョー」と呼ばれる症状だ。原因の分からない重い貧血、ちょっとしたことで折れる骨、そして骨のがんも続いた。1927年10月、モリーの遺体が掘り起こされて調べられると、骨からははっきりと放射能が検出された。墓の中でさえ、彼女の骨はかすかに光っていたと記録されている。1929年、アメリカ労働省はラジウムによる死者を23人と数え、その数は1959年までに45人に増えた。

会社は最初から知っていた
この物語でいちばん重いのは、会社の対応だ。工場では、ラジウムを直接扱う研究者たちは、鉛の板やトングを使って身を守っていた。夜光塗料を考案したザビン・フォン・ソホツキー自身も、のちにラジウムによる病で亡くなっている。それなのに、毎日それを口に含んでいた女性たちには、「安全だ」と言い続けたのである。
1924年、会社の依頼でハーバード大学のセシル・ドリンカーが工場を調べ、女性たちの病気は仕事が原因の可能性が高いと報告した。ところが会社はこの結論を伏せ、州の労働当局には「従業員の健康に問題はない」という、中身の違う報告が届けられた。これを見抜いたのが、労働衛生の研究者アリス・ハミルトンだ。保険会社の統計学者フレデリック・ホフマンも、元従業員たちのあごの感染症と貧血を調べ上げ、警告を発していた。ドリンカーは1925年、本来の報告を自ら論文として発表する。同じ年、ニュージャージー州の監察医ハリソン・マートランドは、患者の体から出る放射線を測る方法を工夫し、女性たちの死と病が、体内にたまったラジウムによるものだと科学的に示した。1928年の審理では、国の研究所の研究者エリザベス・ヒューズが、女性たちの吐く息から放射性の気体が出ていることを証言した。安全だと言われて命を削られていた事実が、ようやく明るみに出たのである。

立ち上がった「ラジウム・ガールズ」
黙って病に倒れることを、彼女たちは選ばなかった。1917年、18歳でオレンジの工場に入ったグレイス・フライヤー(Grace Fryer)は、仕事を辞めたあとに歯を失い、あごの骨が崩れる苦しみの中で、会社の責任を問おうと決めた。引き受けてくれる弁護士を探すだけで、およそ2年かかったという。1927年5月、若い弁護士レイモンド・ベリーとともに、グレイスは合衆国ラジウム社を訴えた。同じ工場で働いた4人の女性が加わり、原告は5人になった。
新聞は彼女たちを「ラジウム・ガールズ」と呼び、残された時間がわずかであることを大きく報じた。1928年5月には、「死を宣告された5人の女性」という見出しまで新聞に躍った。会社は審理の先延ばしを図ったが、世論の非難は強まる一方だった。1928年6月4日、法廷の外で和解が成立する。一人あたり1万ドルの一時金に、生涯にわたって毎年600ドルの年金、そして医療費の支払いという内容だった。しかし5人とも1930年代のうちに亡くなり、グレイスも1933年、34歳で世を去った。

彼女たちが変えた「働く人の権利」
闘いは、イリノイ州オタワにも広がった。1922年に開かれたラジウム・ダイアル社の工場でも、同じ悲劇が起きていたのだ。1937年、キャサリン・ドナヒュー(Catherine Donohue)ら5人の元従業員が、弁護士レナード・グロスマンの助けを得て、州の労働委員会に補償を求めた。彼女たちの集まりは、「生ける屍の会」とまで呼ばれた。1938年2月、審理の場で倒れたキャサリンの証言は、病床で聞き取られた。会社はすでにオタワの工場を閉じてニューヨークへ移っていた。それでも委員会は女性たちの訴えを認めた。だが、キャサリンは同じ年の7月27日、35歳で亡くなる。会社側の最後の上訴は、1939年10月23日、連邦最高裁判所に退けられた。
彼女たちの体に残されたラジウムの記録は、その後の放射線の安全基準づくりにも生かされた。マサチューセッツ工科大学のロブリー・エヴァンズが元従業員たちを測った結果をもとに、1941年、アメリカ国立標準局は、体内にためてよいラジウムの上限を0.1マイクロキュリーと定めた。1949年には、職業病を補償の対象に広げる法律がアメリカで成立し、1970年の労働安全衛生局の設立へと道がつながっていく。1968年にはアルゴンヌ国立研究所に専門の研究センターができ、元従業員たちの健康の追跡調査は1993年まで続いた。残された記録は2403人分にのぼる。
オレンジの工場の跡地は1983年に国の汚染地に指定され、1997年からおよそ9年をかけて建物が取り壊され、深さ4メートルを超える土が入れ替えられた。2011年には、オタワの町に、文字盤を塗る女性のブロンズ像が建てられた。地元の中学生が呼びかけて実現した像だ。そして2025年6月、アメリカ環境保護庁は、オタワに残るラジウム汚染の最後の除去作業を始めると発表した。町の外れの埋め立て地から、およそ14万トンの汚れた土を取り除く計画で、費用はおよそ9000万ドルにのぼる。100年前の光る絵の具は、今もまだ、完全には片づいていない。彼女たちが痛みと引き換えに残したものの上に、今の私たちの「安全に働く権利」が立っている。その事実を、静かに覚えておきたい。
出典・参考情報
- [A] U.S. EPA「EPA Begins Final Cleanup of Ottawa Radiation Areas Superfund Site in Illinois」(2025年6月9日/オタワの最終除去作業)
- [A] New Jersey Historic Preservation Office「Preservation Snapshot: The Radium Girls」(オレンジ工場の規模・1928年の和解額・死者数・跡地の汚染地指定と除去)
- [A] Library of Congress「Headlines & Heroes: Radium Girls」(2019年3月/オタワの審理・ドナヒューの死去・1939年の最高裁)
- [A] NIST(米国立標準技術研究所)の歴史記事(1928年の審理でのエリザベス・ヒューズの証言・和解の内容)
- [B] Wikipedia「Radium Girls」「Grace Fryer」(ドリンカー報告・マートランド・1941年の許容量・アルゴンヌの追跡調査)
- [B] Popular Science(モリー・マッジアの遺体調査・1927年10月15日)
- [B] ORAU「Radium Girls: The health scandal of radium dial painters in the 1920s and 1930s」(2025年1月6日/エヴァンズの許容量)
- [B] Shaw Local「EPA to chart reaction to $90 million Ottawa Superfund clean up」(2023年10月6日/費用と土の量)
- [B] Roadside America「Statue of the Radium Girl」(2011年のオタワの像)
- [B] Kate Moore『The Radium Girls』(2017年/当事者の記録に基づく評伝)
- [B] HISTORY「How the Radium Girls Forced Workplace Safety Reforms」(労働安全改革への影響)
信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別し、被害者・ご遺族の尊厳に配慮して記載。
改定ログ:2026年10月15日 導入を「歴史を振り返って教訓とする」形に改め、最初の犠牲者モリー・マッジア、伏せられたドリンカー報告、1928年の和解額、オタワの審理と1939年の最高裁、1941年の許容量、跡地の汚染除去(2025年6月にオタワで最終作業が開始)を追記。出典を差し替え・追加。





