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ローマ人は落ちた雷を拾って埋めていた――1900年前の「雷の墓標」が、立てられたその場所で見つかった

宗教・カルト・呪術公開 2026年9月13日更新 2026年10月26日ザツレコ編集部
ローマ人は落ちた雷を拾って埋めていた――1900年前の「雷の墓標」が、立てられたその場所で見つかった

2026年9月、ハドリアヌスの別荘から「フルグル・スブマニウム」と刻まれた大理石板が、1900年前に据えられたその場所のまま見つかった。古代ローマ人は、落雷の跡を拾い集めて埋め、羊を捧げ、そこを二度と踏ませなかった。夜の雷を投げる忘れられた神と、雷を片づけるための作法をたどる。

2026年9月12日、イタリア文化省が、ローマ郊外ティヴォリのハドリアヌスの別荘から出た一枚の石板を公表した。大理石で、縦横はおよそ40センチと35センチ。刻まれていたのは、たった二語である。「フルグル・スブマニウム」――夜の雷の神、スンマヌスの雷。これは落雷があった場所そのものに立てられた標識だった。古代ローマでは、雷が落ちると、その跡を人の手で拾い集めて埋め、そこを二度と踏ませなかった。なぜそんなことをしたのか。あっても無くても人生に影響しない、極上のムダ知識をインストールしていこう。

別荘の片隅に、四角い箱が建っていた

舞台になっているのは、ローマの東およそ30キロ、ティヴォリの丘のふもとに広がるハドリアヌスの別荘だ。皇帝ハドリアヌスが2世紀の前半に造らせた離宮で、面積はおよそ120ヘクタール。別荘というより一つの街に近い。1999年から世界遺産に登録されている。

石板が出たのは、そのなかでも円形闘技場と呼ばれる一角と、凝灰岩の崖とのあいだだった。掘っているのはウルビーノ大学カルロ・ボー校の人文学部で、イタリア文化省の許可を受け、ヴィッラ・アドリアーナとヴィッラ・デステを管理する機構と組んでの調査である。

姿を見せたのは、凝灰岩の切石をモルタルで積んだ、小さな四角い構造物だった。人が出入りする建物ではない。雷が落ちた地点を囲うためだけに、わざわざ組まれたものだ。

その正面に、例の大理石板がはめ込まれていた。ここが肝心なのだが、動かされていない。およそ1900年ものあいだ、彫られたその場所にそのまま残っていた。発掘の責任者であるファビオ・ジョルジョ・カヴァッレーロは、元の位置にあることが地層との対応を与えてくれる、という言い方をしている。文化大臣のアレッサンドロ・ジュリは、ローマ人の信心についての、まれで、たいへん喚起力のある証言だと述べた。

昼の雷はユピテル、夜の雷はスンマヌス

刻まれた二語を、一つずつ開いてみる。

フルグルは稲妻そのものを指す。問題はもう一方のスブマニウムで、これはスンマヌスという神の名から来ている。ローマの雷は、担当が時間帯で分かれていた。昼に光るものはユピテル、ギリシアのゼウスにあたる最高神が投げる。ところが日が落ちてから光るものは、スンマヌスという別の神の仕事だった。

この神は、いまではほとんど名前を知られていない。古代の人にとっても曖昧だったらしく、詩人のオウィディウスは、スンマヌスが何者なのかはよく分からない、と書き残している。名前の由来も定まっていない。死者の霊マネスのなかで最も偉大なもの、という読み方もあれば、朝より前、つまり夜、という読み方もある。大プリニウスはこの神をエトルリア由来と見て、雷を投げる九柱の神の一つに数えた。夜の稲妻を投げる神は、冥界の側に置かれていたわけである。

雷を拾って、埋める

では、雷が落ちたらどうしたか。ここからがこの回の本題になる。

ローマ人にとって、落雷を受けた土地は「レリギオースス」になった。神のものになってしまった、という意味である。人が勝手に使ってよい土地ではなくなる。だから手続きが要った。

その手続きが「フルグル・コンディトゥム」、直訳すれば「埋められた雷」だ。落ちた地点に穴を掘る。焦げた土、裂けた木片、溶けた金属、およそ稲妻が触れたものを残らず拾い集め、その穴に入れる。決まった文句を唱えて埋め戻す。上に井戸の口のような石の囲い、プテアルを載せる。そして生後二年の羊を屠って捧げる。

儀式の呼び名は、この羊から来ている。二年子の羊をラテン語でビデンスといい、そこから、清められた場所そのものがビデンタルと呼ばれるようになった。執り行う専門の神官も、同じ語からビデンタレスと呼ばれている。

標識を立てるところまでが一式だった。今回の石板のように「フルグル」と刻んで、誰の雷なのかを添える。読む人に向けた案内ではない。ここは片づけ済みだ、という申告である。

出来上がったビデンタルには、塀か柵が回された。ここからの徹底ぶりが独特だ。ビデンタルは、触れてはいけない。踏んではいけない。完成したあとは、見ることさえいけないとされた。そして人が落雷で死んだ場合、遺体は火葬にされない。雷が落ちたその場所に、そのまま埋められた。

作法はエトルリア人から受け継いだ

この一式は、ローマ人が自分で考え出したものではない。先住のエトルリア人から受け継いだ体系である。

エトルリアには「エトルリアの教え」と総称される一群の書物があり、そのうち雷を扱う部分は「雷の書」と呼ばれた。伝承では、ヴェゴイアという女預言者が授けたことになっている。中身はどこまでも技術的で、空を十六の区画に割り、稲妻がどの区画から出てどの区画へ抜けたかで意味を読む。大プリニウスによれば、エトルリア人は雷を投げる神を九柱、稲妻そのものを十一種類に分類していた。ユピテルだけで三種類を受け持っている。

読む専門家はハルスペクスと呼ばれ、羊の肝臓の形からも神意を読んだ。イタリアのピアチェンツァで出土した青銅製の肝臓の模型には、四十の区画に神々の名が刻まれている。ローマは共和政になっても帝政になっても、この技術者たちを手放さなかった。雷が落ちるたびに呼び、意味を読ませ、後始末をさせている。

この技術がどれだけ長く生き延びたかを示す逸話が、帝国の終わりごろにある。教会史家ソゾメノスによれば、西ゴートの王アラリックがローマを囲んだとき、都の長官が、エトルリア系の占い師たちに助けを求めたという。彼らは、ナルニアの町では祈りによって雷を呼び、蛮族を追い払った、同じことをローマでもやれると言った。西暦5世紀の初め、キリスト教がすでに国の宗教になっていた時期である。結局その儀式は行われなかったと伝えられるが、雷を呼べるという触れ込みが、それでもまだ交渉のカードになっていた。

雷を呼ぼうとして、焼かれた王がいる

プリニウスの記述をたどると、雷の扱いはさらに細かい。

乾いた稲妻は燃やさずに物を吹き飛ばす。煙を含んだものは黒く焦がすだけで火を出さない。明るい稲妻にいたっては、樽の蓋を傷つけずに中身だけ干上がらせ、容器を焦がさずに中の貴金属を溶かす、とされた。地面から出てくる「低い雷」という種類もあり、こちらは斜めではなく真っ直ぐ来るので見分けがつくという。

落ちた時期からは、先のことも読めた。家を構えた最初の年に落ちた雷はその家の一生を占い、個人に関わるものは十年先まで、公に関わるものは三十年先までを告げる。

そして、雷は呼べるとも考えられていた。プリニウスは、エトルリアの王ポルセンナが祈りによって雷を降らせた、ローマの二代目の王ヌマがこの儀式をたびたび行った、という記録を紹介している。ぞっとするのはその続きで、三代目の王トゥッルス・ホスティリウスが、同じことを作法を誤ったまま真似て、雷に打たれて死んだ、と書かれている。手順を間違えると死ぬ、という前提で運用されていた技術だったわけである。

ついでに書いておくと、プリニウスは、月桂樹に雷は落ちない、鷲とアザラシも打たれない、雷は地下五フィートより深くは入らない、とも述べている。月桂樹の冠をかぶる皇帝がいたのは、この言い伝えと無縁ではない。ティベリウス帝は雷が鳴るたびに月桂樹の冠をかぶった、という話が残っている。

忘れられた神と、忘れられなかった場所

そのスンマヌスが、どう薄れていったかも面白い。

紀元前278年ごろ、ピュロス王との戦争のさなかに、ローマはこの神の神殿を建てた。大競技場キルクス・マクシムスの近くである。きっかけは事故だった。カピトリウムのユピテル神殿の屋根に載っていたスンマヌス像に雷が落ち、頭部が吹き飛んでテヴェレ川に落ちた。頭は川から回収され、それを受けて神殿が建った。落雷の神の像が落雷で壊れたから神殿を建てた、という筋書きである。

奉献日の6月20日には、車輪の形をした焼き菓子を供えた。小麦粉と牛乳と蜂蜜で作り、名前をスンマナリアという。あわせて黒い獣を二頭。黒は冥界の神に捧げる色だ。

それでも神は忘れられていった。アウグスティヌスは、かつてスンマヌスはユピテルより重んじられていたのに、より壮麗なユピテル神殿が建ってから人が離れた、と書いている。紀元前197年には、よりによってスンマヌス自身の神殿に雷が落ちている。

まとめ

ローマ人は、雷を天気だと思っていなかった。神からの通知だと思っていた。だから返事をした。落ちた跡を拾い、穴に入れ、羊を捧げ、囲って、二度と踏ませない。

今回の発見が特別なのは、そこに尽きる。似たような囲いはポンペイにもヴルチにもトーディにも、南フランスにもある。ただしほとんどは穴だけが残っていたり、どこかから運ばれてきた石板だけだったりする。今回は、石板が、それを支えるために建てられた構造物にはまったまま出てきた。儀式の道具立てが一そろい、位置関係を保ったまま残っていたことになる。

名前を忘れられた神あての、1900年ぶんの受取印である。

出典・参考情報

  • [A] イタリア文化省/ヴィッラ・アドリアーナ・エ・ヴィッラ・デステ機構 発表(2026年9月)
  • [A] ウルビーノ大学カルロ・ボー校 人文学部による発掘調査(責任者 ファビオ・ジョルジョ・カヴァッレーロ)
  • [A] 大プリニウス「博物誌」第2巻(雷の分類・エトルリアの教え・ポルセンナとヌマとトゥッルス・ホスティリウス)
  • [A] ソゾメノス「教会史」第9巻(アラリック包囲時のエトルリア系占い師)
  • [B] The History Blog「Inscription marking nocturnal lightning strike found at Hadrian's Villa」(2026年9月12日)
  • [B] Archaeology News Online Magazine「Romans buried traces of lightning strikes for the god Summanus, a 1,900-year-old inscription reveals」(2026年9月)
  • [B] Discover Magazine「A Marble Slab at Hadrian's Villa Records a Lightning Strike Romans Believed Came From a God」(2026年9月)
  • [B] La Brujula Verde「Romans Believed Lightning Was Sacred and Buried Them as Offerings to God Summanus」(2026年9月)
  • [B] ギリシア・ローマ古代事典 BIDENTAL の項(1890年版)

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