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桐島聡――交番のポスターで笑い続けた青年は、49年後に「最期は本名で」と名乗り出た。連続企業爆破事件の手配犯が残したもの

猟奇・事件・犯罪公開 2026年10月4日更新 2026年10月26日ザツレコ編集部
桐島聡――交番のポスターで笑い続けた青年は、49年後に「最期は本名で」と名乗り出た。連続企業爆破事件の手配犯が残したもの

1975年、連続企業爆破事件の一つで指名手配された桐島聡。交番のポスターの笑顔で知られた男は、実際には「内田洋」の名で藤沢の工務店に49年住み込んでいた。2024年1月、末期がんの病床で本名を名乗り、4日後に亡くなるまでを、公的発表と報道で裏の取れた事実だけでたどる。

2024年1月、神奈川県鎌倉市の病院で、末期のがんで入院していたひとりの男性が、病院の人にこう打ち明けました。自分は「桐島聡」だ、と。半世紀近く前に連続企業爆破事件で指名手配され、全国の交番や駅に写真が貼られ続けてきた男の名前です。男性はその4日後に亡くなり、のちにDNA型の鑑定で本人と確かめられました。今回は、逃げ続けた人生を美化するためでも、謎として面白がるためでもなく、1970年代に何が起き、何が残ったのかを確かめて教訓とするために、公的な発表と報道で裏の取れた事実だけを順にたどります。爆弾で命を奪われ、傷ついた人たちがいた事件であることを、最初に心に留めておきましょう。

交番の壁で、50年近く笑っていた青年

多くの人が「桐島聡」という名前を知っていたのは、事件そのものよりも、1枚の写真のためでした。黒縁の眼鏡をかけ、少し首をかしげて笑う、長髪の若者の顔写真です。この写真は学生時代に撮られたもので、指名手配のポスターに使われ、交番の前や駅の掲示板に何十年も貼られ続けました。

ポスターの顔は、ずっと20歳前後のままでした。手配されたのは1975年で、写真の本人はその後も年を重ね、50代、60代になっていきます。それでも交番の壁の上では、あの笑顔だけが時間の外に取り残されていました。何十年も同じ場所に貼られているうちに、見る側にとっては「風景の一部」になっていった、と振り返る声も少なくありません。

桐島聡は1954年1月9日、広島県の神辺町、いまの福山市に生まれました。地元の高校を出て東京の明治学院大学に進み、そこで出会った仲間とともに、のちに「東アジア反日武装戦線」の一部隊とされるグループに加わっていきます。20歳を少し過ぎたばかりのころでした。

東アジア反日武装戦線と、1974年8月30日の丸の内

東アジア反日武装戦線は、1970年代前半に活動した過激派のグループです。日本の企業がアジアで利益を上げていることを「侵略」だとみなし、企業の建物を爆弾で狙いました。グループは「狼」「大地の牙」「さそり」という三つの部隊に分かれ、それぞれが独自に動いていたとされています。

なかでも被害が大きかったのが、1974年8月30日の昼に東京・丸の内で起きた三菱重工業本社ビルの爆破です。昼休みで人が行き交う時間帯に仕掛けられた爆弾が爆発し、8人が亡くなり、380人近くがけがをしました。通りがかっただけの会社員や通行人が、ガラスの破片と爆風に巻き込まれています。この事件を起こしたのは「狼」の部隊で、桐島が加わっていた「さそり」とは別でした。

その後、1974年から翌年にかけて、ゼネコンや商社などの建物が次々に爆破されます。同じ年の10月には「大地の牙」が三井物産の本社を狙い、居合わせた人たちが重軽傷を負いました。一連の事件は「連続企業爆破事件」と呼ばれ、社会に大きな不安を広げました。主張がどうであれ、爆弾は狙った建物の中にいる人も、たまたまそばにいた人も区別しません。この事件をたどるときに、まず確かめておくべきなのはこの点です。

「さそり」と、1975年5月19日の一斉逮捕

桐島が加わっていた「さそり」は、大学の仲間だった黒川芳正、宇賀神寿一らのグループでした。この部隊は1974年12月から1975年5月にかけて、建設会社の本社ビルや工事現場をくり返し狙ったとされています。そのうち間組の作業所の爆破などでは、働いていた人が長期の治療を要する大けがを負いました。

1975年5月19日、警視庁は東アジア反日武装戦線のメンバー7人を一斉に逮捕します。押収した資料などから桐島の関与が浮かび、警察は爆発物取締罰則違反の疑いで行方を追い始めました。手配の容疑となったのは、1975年4月に東京・銀座のビルで韓国産業経済研究所を狙って爆弾が仕掛けられた事件です。

ただ、このとき桐島と宇賀神は逮捕を逃れていました。桐島が最後に実家へ連絡したのは5月31日で、「岡山にいる。国外へ逃げることも考えている」という内容だったと伝えられています。宇賀神は7年後の1982年に逮捕され、懲役18年の刑が確定しました。黒川は無期懲役が確定しています。仲間が次々に裁かれていくなかで、桐島だけが姿を消したままになりました。

「内田洋」として暮らした藤沢の49年

桐島がどこで何をしていたのかが分かったのは、本人が名乗り出たあとのことです。報道によれば、男性は1980年代から神奈川県藤沢市の工務店で、「内田洋(うちだ・ひろし)」の名前で住み込みで働いていました。暮らしていたのは会社の古い木造の寮で、給料は現金で受け取り、銀行の口座は持たず、保険証や運転免許証のような身分を示すものも持っていなかったとされています。

一方で、隠れるように閉じこもっていたわけではありませんでした。近くのバーに通い、ジェームス・ブラウンやサンタナといった音楽を好み、店では「うーやん」と呼ばれていたと報じられています。同じ街の人たちは、ごく普通の常連客として彼を見ていました。交番に貼られたポスターの青年と、目の前の初老の男性とを結びつけた人はいなかったのです。

身分を持たない暮らしは、自由に見えて、実際には多くのものを手放す暮らしでもあります。病院にかかるときは保険が使えず、費用は全額自分で払うことになります。報道では、歯の治療も十分に受けられていなかったとされています。病気に気づいたときには、がんはすでに進んでいました。逃げることを選んだ結果は、こうした形でも本人に返ってきていました。

「最期は本名で」――2024年1月の数日間

2024年1月、男性は末期の胃がんと分かり、鎌倉市内の病院に「内田洋」として入院します。そして1月25日、病院の人に自分が桐島聡だと明かしました。伝えられているところでは、「最期は本名で迎えたい」と話したといいます。連絡を受けた警視庁公安部はすぐに話を聞き始め、親族の協力を得てDNA型の鑑定を進めました。

男性が亡くなったのは1月29日の朝です。70歳でした。逮捕される前の死で、取り調べも裁判も行われないままになりました。2月2日には藤沢市の住まいが家宅捜索され、親族との鑑定でも「親族関係に矛盾はない」という結果が出ます。

そして2月27日、警視庁は鑑定の結果から、亡くなった男性を桐島聡本人と特定し、指名手配を解きました。同じ日、爆発物取締罰則違反などの疑いで、容疑者死亡のまま書類送検しています。その後、検察は容疑者が亡くなっていることを理由に不起訴としました。49年に及んだ手配は、本人の口から出た名前によって終わったことになります。遺族は遺体の引き取りを断り、男性は市の手で火葬されたと報じられています。

終わっていない事件と、この話の教訓

桐島の死で、東アジア反日武装戦線の事件がすべて終わったわけではありません。1975年と1977年、日本赤軍によるハイジャックなどの人質事件で、政府は人質の命と引き換えに、拘置中だった仲間の釈放に応じました。いわゆる「超法規的措置」です。このとき国外へ出た大道寺あや子と佐々木規夫は、その後日本赤軍に加わったとされ、警視庁の「国際手配中の日本赤軍」のページにはいまも二人の名前が載っています。三菱重工爆破から50年がたった2024年8月30日にも、警察は二人について「捜査を続けている」と答えるだけで、居場所は明らかになっていません。現場のビルはいま、店やカフェの入る建物に変わり、当時をしのばせるものは見当たらないといいます。それでも、三菱重工爆破の遺族や被害者にとって、事件はまだ閉じていません。

2025年には、桐島の逃亡を題材にした映画『逃走』と『桐島です』が相次いで公開され、あらためて関心が集まりました。ただ、物語として語られるほど、事件の中心にいた人たちの姿は見えにくくなります。忘れてはいけないのは、逃げた側の人生の長さではなく、爆弾で命を奪われ、体や心に傷を負った人たちの時間のほうです。

この事件から引き出せる教訓は二つあります。一つは、どんな主張があっても、無差別の暴力は守りたかったはずの社会そのものを傷つけ、何十年たっても償いきれない結果を残すということです。もう一つは、手配写真の前を通り過ぎる私たち一人ひとりの目が、事件を終わらせる力になりうるということです。ポスターの顔は古くなっても、人は社会の中で暮らす以上、誰かの記憶に残ります。気になる人を見かけたら、自分で確かめようとせず、見た場所と時間を警察に伝える。それがいちばん確かな方法です。

まとめ

桐島聡は、1975年に連続企業爆破事件の一つで指名手配され、交番のポスターの笑顔とともに半世紀近く知られてきた人物です。実際には「内田洋」の名で藤沢市の工務店に住み込み、身分を持たずに暮らしていました。2024年1月、末期がんで入院した病院で本名を明かし、4日後に70歳で亡くなり、DNA型の鑑定で本人と特定されました。容疑者死亡で事件の真相が法廷で語られることはなくなり、同じグループのメンバー2人はいまも国外で手配されています。振り返るべきなのは、逃亡の物語ではなく、爆弾で人生を断ち切られた人たちがいたという事実です。

出典・参考情報

  • [A] 警視庁「国際手配中の日本赤軍」(大道寺あや子・佐々木規夫ほか)
  • [B] 時事通信「『内田洋』で数十年住み込み 偽名か、桐島容疑者名乗る男」(2024年1月)
  • [B] 時事通信「自称桐島容疑者宅に家宅捜索 DNA型『矛盾なし』」(2024年2月2日)
  • [B] AFP通信「DNA tests confirm death of Japan radical wanted for decades」(2024年2月27日)
  • [B] 弁護士ドットコムニュース「桐島聡容疑者の逃亡生活」(2024年1月)
  • [B] 弁護士JPニュース「逃亡生活の苦しみ『並大抵のものではない』」(2024年)
  • [B] 弁護士JPニュース「三菱重工爆破事件から50年、容疑者2人は『超法規的措置』で現在も逃亡」(2024年8月30日)
  • [B] nippon.com「連続企業爆破事件と桐島聡」(2024年)
  • [B] imidas 時事解説「東アジア反日武装戦線と映画『逃走』『桐島です』」(2025年)
  • [C] Wikipedia「桐島聡」(経歴・時系列の確認用)

信頼度 A=一次/公的、B=定評メディア・専門書、C=個人発信。事実・証言・諸説を区別して記載。

この記事は事実と説・伝承を区別して記述しています。

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